第6回CGSワークショップ
「民族浄化の抑止と国際人権法」

*「地域研究による人間の安全保障学の構築」との共催

日程・会場他

・日時: 2004年6月12日(土) 13:50−18:00 (13:00開場)
・場所: 東京大学・駒場キャンパス学際交流棟 3F 学際交流ホール

プログラム

◇挨拶: 黒木英充(東京外国語大学)
◇趣旨説明・司会: 佐原徹哉(明治大学)
■報告@: 廣瀬陽子(慶應義塾大学)「アゼルバイジャンにおける民族浄化の諸相」
■報告A: 元百合子(明治大学)「マイノリティの権利の国際的保障」
■報告B: 柴宜弘(東京大学)「ユーゴスラヴィア紛争と民族自決」
◇コメンテーター: 土佐弘之(神戸大学)

報告要旨

・報告@: 廣瀬陽子「アゼルバイジャンにおける民族浄化の諸相」
・報告A: 元百合子「マイノリティの権利の国際的保障」

 

報告要旨@: 廣瀬陽子(慶應義塾大学)
「アゼルバイジャンにおける民族浄化の諸相」

 アルメニア人はトルコ人により悲惨な民族虐殺を受けてきたということが広く浸透している一方、アルメニア人が民族虐殺の加害者でもあり、アゼルバイジャン人がその被害者であるという側面はあまり知られていない。アゼルバイジャンでは、毎年、 3 月 31 日を「ジェノサイド記念日」とし( 1988 年の大統領令による)、ジェノサイドの被害者としてのアゼルバイジャン人の歴史を呼び起こし、国民の意識に強く植えつけるとともに、国外的にもアピールを行っている。

 アゼルバイジャン人とアルメニア人の間の対立を表現するにあたり、しばしば、ジェノサイドやポグロムという言葉が用いられてきた。だが、アルメニア人に対するジェノサイドと言われている「スムガイト事件」のアルメニア人死者が 26 人であることから鑑みても、どのような出来事について、いかなる基準に基づいてジェノサイドであるという認識がもたれているのかについては、今後、包括的な議論が必要となろう。何故なら、それが被害者の実感によって、たとえ死傷者が少なくともジェノサイドであるという認識を持ってしまう場合はともかく、第三者からの同情を買い、敵対者の国際的立場を貶めることを目的としたプロパガンダである場合も多いからである。アゼルバイジャン人とアルメニア人の間の対立においても、プロパガンダであると思われる主張が多々見られるということを最初に留保しておきたい。

 アゼルバイジャン人は、テュルク語系アゼルバイジャン語を話し、文化的にもトルコ人と近いため、アルメニア人からはトルコ人と同一視されている。また、ソ連成立までは、アゼルバイジャン人は、他のテュルク語系諸民族との明確な区別をなされずに、タタール人と呼ばれていた。そのため、アゼルバイジャンにおける虐殺を考える際には、 1895 〜 96 年と 1915 〜 22 年にオスマン帝国領内で行われたアルメニア人大虐殺についても考慮する必要がある。何故なら、アルメニア人はその虐殺の復讐を、大きな敵であるトルコ人に対してではなく、アゼルバイジャン人に対して行ってきたからである。

 まず、 1905 〜 07 年にアルメニア・タタール戦争が起きた。背景として、両民族間の社会的階級的緊張、ムスリム住民の間での皇帝の敵であるアルメニア人がムスリム虐殺を企てているという噂などがあったが、バクーでのハッジ・レザー・ババイェフ殺害事件が直接的な原因とされている。最初は、ムスリムが仕掛けた攻撃であったが、軍事的な訓練を良く受けていたダシュナク党が無差別攻撃に参加することにより、結果的にムスリムに大きな被害が出て、 3100 人から1万人ともいわれる死者が出た。この騒乱がツアーリズムに扇動されているという意識ももたれる一方、混乱状況は二年ほど継続し、アゼルバイジャン人のアルメニア人に対する憎悪はさらに拡大した。

 1917 年のロシア革命の影響を受け、 1918 年には、ソヴィエト革命委員会とダシュナク党の不安定な勢力均衡に基づく連合とアゼルバイジャン人の民族主義政党であるムサヴァト党(汎トゥルキズム)の対立が契機となって、 3 月半ばからダシュナク党の部隊がアゼルバイジャン人を攻撃しはじめ、一方、ムスリムとボリシェヴィキの軍事革命委員会が衝突し、武装解除にも失敗したため、 30 日夕刻に、ムスリムの居住するシャマハで革命委員会の兵士とムスリムが交戦状態に入り、 31 日 ( 虐殺記念日 ) には市街戦がバクー市のほぼ全域に拡大し、ダシュナク党が指揮するアルメニア人部隊も無差別虐殺に加わったことにより、死者はバクーだけでも、 8,000-12,000 人、アゼルバイジャン全土で女性、子供を含む5万人が犠牲になったといわれ、多数の難民も発生した。また、アルメニアでも、「トルコ人のいないアルメニア」という計画のもとに、アルメニアでもアゼルバイジャン人の虐殺や追放が行われ、多大な被害が出た。それに対し、 9 月にアゼルバイジャン人が反撃に出るなど、以後、両民族の虐殺の応酬は止まらなくなる。そして、国境画定問題とも絡み、民族的対立はコーカサス中で続き、 1918 〜 20 年の間に、アルメニア本国で多くのアゼルバイジャン人が殺害されたり、追放されたりした。 1920 年にアゼルバイジャンでソヴィエト政権が成立し、コーカサスの国境画定はモスクワに委ねられたが、それによってアゼルバイジャン領となったナゴルノ・カラバフの奪還をアルメニア人は目指していくことになる。

 ソ連時代には、 1948-53 年にアルメニア領から大量のアゼルバイジャン人が追放される事件があったものの、両民族関係は比較的安定していた。しかし、 1965 年の「アルメニア人虐殺五十周年記念集会公式行事」以降は、ナゴルノ・カラバフ自治州の奪還がアルメニア人の重要な目標となっていた。

 ペレストロイカ期には、アルメニア人にとって様々な好都合な事情が続き、ナゴルノ・カラバフ奪還運動の勢いは頂点に達した。運動は、当初平和裏に行われていたが、やがて暴力的になり、 87 年 11 月頃から 多くのアゼルバイジャン人がアルメニアやナゴルノ・カラバフから流出した。政府が難民をスムガイトに移送した一方、 2 月 22 日に二人の若いアゼルバイジャン人が殺害されたアシュケラン事件が起こり、アルメニア人に対するアゼルバイジャン人の憎悪が募る中で 28 日にアルメニア人に対する虐殺事件とされるスムガイト事件が起きた(アゼルバイジャン人 6 人、アルメニア人 26 人死亡)。本事件は謎の多い事件で、 KGB など当局による陰謀事件だという見解が根強くあるが、以後、両民族の暴力の応戦と民族浄化が常態化してしまい、その過程で両民族の憎悪は増幅される。

 そのような中でアルメニア人保護を名目に、 1990 年 1 月 20 日、ソ連軍と内務省国内軍の両部隊 2 万 4 千人がバクーへ侵攻し、民衆約 200 人を無差別虐殺し(行方不明者も多数)、全ての企業を接収して非常事態を宣言した(黒い一月事件)。真の介入理由は「アゼルバイジャン人民戦線」の壊滅とソ連各地で急成長していた人民戦線に対する見せしめだったため、アゼルバイジャン人の被害者意識が高まる一方、」犠牲者の多くが埋葬された 「英雄たちの小路」はアゼルバイジャンの虐殺のシンボルになった。

 ソ連が解体し、アゼルバイジャンとアルメニアがそれぞれ独立すると、アルメニアとナゴルノ・カラバフが共闘し、ソ連軍の武器や傭兵も使用される「戦線布告のない全面戦争」になった。また、ロシアがアルメニアを支援したことも手伝って(ソ連第 366 部隊や大型兵器の動員、 93 年から 10 億ドルにも上る対アルメニア軍事援助、アゼルバイジャンのクーデター支援など)、アルメニアが戦況を有利に進めた。 1992 年 2 月 25 〜 26 日のホジャル大虐殺(一晩で 613 人死亡、 421 人負傷し、 180 人以上が依然行方不明、 1275 人以上が人質に、 1,000 人以上が難民化)などを経て、ナゴルノ・カラバフのアゼルバイジャン側拠点はまもなく陥落した。 1992 年 2 月より CSCE (後、 OSCE )ミンスク・グループが和平に乗り出すが実効的な成果は出ず、最終的には 1994 年 5 月にロシアの仲介により停戦成立した。本紛争の最終的な被害は、死者 3 万人以上、負傷者約 5 万人となり、 アルメニアとナゴルノ・カラバフからは全アゼルバイジャン人が追放され、アルメニア人はアゼルバイジャン領約 20 %を占領し続けている。 停戦ラインで散発的に発砲事件があるものの停戦は維持されているが、和平は難航し、アゼルバイジャンにおける難民、 IDP (約 100 万人。アゼルバイジャン人の 8 人に 1 人)問題の継続が、アルメニア人に対する敵意をさらに増幅させることになっている。

 まとめとして、第一に 1918 年とソ連末期の諸相の相似を指摘したい(@背景に不穏な空気、A革命、ペレストロイカなど国家体制の変動・混乱期に乗じて騒動発生、B虐殺は突然起こり、直接的原因は非常に些細な事件、C虐殺が当局に扇動されている可能性、D一度、虐殺が始まると、エスカレートし、大虐殺へと発展、E虐殺の過程で双方の敵意・憎悪が増幅される)。第二に、アゼルバイジャン政府は、ジェノサイド記念日や様々な報道などによって、現在の政治経済問題、失業、難民問題など現政権への国民の不満をアルメニア人に振り向け、またナショナリズムを高揚させ、ジェノサイドを内政に利用しているという点がある。第三に、国際社会が当地の平和構築に対し無力であり、プロパガンダの認識問題とも絡んで、各地の民族対立を解決していくうえでの包括的な議論が必要だと考える。民族間の問題の根本原因と憎悪を解決しない限り、虐殺は各地で今後も繰り返される可能性がある。

 

報告要旨A: 元百合子(明治大学)
「マイノリティの権利の国際的保障」

はじめに

 マイノリティの保護は、国際人権法の発展史における古くて新しい課題である。それは同時に、国連のもとで大きな発展を遂げた国際人権法とその保障システムに内在する最大の弱点でもある。以下に、マイノリティの権利の国際的保障について歴史および現行の法と制度を概観する。

・ 国際連盟のマイノリティ保護制度

 マイノリティの問題は、「人権」概念が生まれる以前にすでに国際政治と法の問題であった。 17 世紀、国際法の揺籃期のヨーロッパでは、宗教改革と「 30 年戦争」を契機に宗教的マイノリティの保護に関する条約が諸国間で交わされていた。人権思想が開花した 18 世紀を経て 19 世紀には、一部の民族的マイノリティも保護の対象とされた。国際社会がマイノリティの権利を保障する企てに着手したのは、第一次世界大戦後のことである。国際連盟は、第一次世界大戦敗戦国と帝国解体後成立した新興国家に、国内の「人種的または民族的( national )マイノリティ」〔註1:‘ national 'は多義的であり、訳語も一定しないが本稿では、「民族的」と訳す。〕の保護を条約によって義務付け、その実施を監視した。ただ、大国が力によって特定国に強要した規範は、一般性・普遍性を備えなかった。その主目的も、 17 世紀以来の営みと同様、欧州の国家間関係と各国内の安定および秩序維持であって、人権の視点は弱かった。とはいえ、当該の条約には、非差別原則、集団的独自性の保持に関わる「特別な権利」、個人の権利の集団的行使、国家の積極的措置義務など画期的な内容の規定が置かれている。権利侵害に関する個人通報手続き(いわゆる苦情の申し立て)を含む条約履行確保の仕組み、その一部を担った常設国際司法裁判所によってなされたマイノリティの権利に関する司法的判断や勧告的意見などは、それ以降の国際人権保障の発展に少なからず寄与した。

・ 国連のマイノリティ保護システム

 人権尊重を目的の一つに掲げて設立された国連は、連盟のマイノリティ保護制度を継承しなかった。普遍的人権の非差別平等適用によってマイノリティに属する人々も保護されるという考え方、また同化主義的な国民統合志向が国際社会で支配的であった。人権問題が、原則的に各国の国内事項から国際的関心事項に変化したとはいえ、集団の抹殺を防止・処罰するジェノサイド条約の策定以外には、いくつかの人権条約に関連する規定が置かれただけで、マイノリティは注目されることが少ない時期が長く続いた。現在、マイノリティの権利を規定する主要な国連文書は、「市民的・政治的権利に関する国際規約」第 27 条と「民族的( national or ethnic )、宗教的および言語的マイノリティに属する者の権利に関する宣言」( 1992 年国連総会決議。以下、「宣言」)である。後者は法的拘束力を備えないとはいえ、権利内容と国家の義務をかなり詳しく規定する包括的文書である。該当するマイノリティの構成員は特有の権利、すなわち集団的独自性の維持・発展に関わる文化的権利、社会生活や決定過程へ参加する権利を享有し、集団的行使が認められる。 国家は様ざまな積極的措置を講ずる義務を負う。

 論争に満ちた長期の起草作業と、その後、条約化に向けた動きがほとんどないことは、分離独立・民族自決権を明文で否定してもなお、マイノリティへの権利付与と集団的保護に対する諸国政府の警戒心がいかに強いかを示している。〔註2:先住民族権利宣言も同様の抵抗にあって宙に浮いている。国際法上、先住民族はマイノリティとは区別され、その先住性ゆえにマイノリティを上回る権利を持つと考えられる。自らが望む場合には、先住民族はマイノリティの権利を主張・行使できる。〕それでも宣言の成立は、国際社会が、普遍的人権の非差別平等適用だけではマイノリティを十分に保護できないこと、差別・抑圧・排除・強制的同化政策は領土保全と国民統合をかえって不安定にする効果をもつことを経験的に学び、むしろ多文化共生によって社会を安定させるべきことに気付いたことを示している。

・まとめに代えて

 いわゆる民族紛争に限らず、貧困、開発、教育、保健、環境、難民、移住労働、人身売買など、地球的課題のほとんどはマイノリティ問題である。とくに近年、マイノリティの多くは、国内および国家間の格差を拡大させる経済的グローバル化の歪みに直撃され、あるいは「反テロ戦争」という名の下の政治的抑圧の強化によって、一層の困難に直面している。そういった現実状況の進展と当事者の苦難、深い不満とニーズに対し、国際社会の対応は極めて不十分である。「個人の権利」へのこだわりは、集団をアクター・交渉対象と認めることや集団間の格差是正を妨げる。保障される権利は文化的権利が中心であって、圧倒的多数のマイノリティが必要とする貧困からの脱却と資源の再配分は国家に義務付けられていない。紛争については、概ね事後的―しかも選択的―対応にとどまり、早期警報と防止の制度は未整備である。

 「ジェンダーの主流化」と同様に、各国と国連のすべての活動分野に意識的にマイノリティの視点を導入することが必要かつ重要である。それは、集団間の緊張と対立を減らし、紛争を根本的に防止することにつながる最も効果的な方策でもあろう。

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〔参考文献〕

金 東勲「国際人権法とマイノリティの権利」国際法学会編『日本と国際法の 100 年、第 4 巻、人権』(三省堂、2001)

反差別国際運動日本委員会編『マイノリティの権利とは』(解放出版社、2004年)