第4回 CGSワークショップ
「ポル・ポト政権下の粛清・虐殺の構図 」

日程・会場他

・日時: 2004年4月17日(土) 15:00 〜 17:30
・場所: 東京大学・駒場キャンパス 8号館4階405号室

◇司会: 武内進一(日本貿易振興機構アジア経済研究所)
■報告者: 天川直子(日本貿易振興機構アジア経済研究所)
◇コメンテーター: 笹川秀夫(上智大学アジア文化研究所)

報告要旨

 

 本報告は、1.ポル・ポト政権の成立過程、2.ポル・ポト時代の死の諸様相、3.東部管区の粛清、4.おわりに、の4部で構成される。

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1.ポル・ポト政権の成立過程

 ポル・ポト政権を生むに至ったカンボジアにおける共産主義運動の始まりは、 1930 年のインドシナ共産党の設立に求めることができる。仏領インドシナにおける共産主義運動は、ベトナム人を最初の担い手としたが、目標はベトナムの解放ではなく仏領インドシナ全体の解放におかれた。しかし、第2次世界大戦後の抗仏戦争( 1945 年〜 1954 年)の過程で、ベトナム、ラオス、カンボジアそれぞれの党の必要性が認識され、 1951 年、インドシナ共産党は3党への分離を決定した。カンボジアではクメール人民革命党が設立された。

 クメール人民革命党は、古参活動家の北ベトナムへの亡命やシハヌークによる弾圧を受けて、 1960 年代末には極小勢力になっていた。ポル・ポトら仏留学中に共産主義運動に触れ、抗仏戦争後に入党した若手が、 1960 年代に党主流になれたのは、党人材の空白と農村部での党活動の崩壊によるところが大きいと考えられる。

 存亡の危機にあったカンボジアの共産主義運動に急速な発展の条件をもたらしたのが 1970 年の「ロン・ノル・クーデター」である。国を追放されたシハヌークは、中国とベトナムの説得を受けて民族統一戦線の結成を宣言した。ポル・ポト率いるカンボジア共産党( 1966 年改称)はこれに参加することによって、シハヌークの名において人々を動員することが可能になったのである。

1975 年 4 月 17 日、民族統一戦線がプノンペンに入城した後、ポル・ポトら共産党中央が政権の表舞台に登場するまで約1年が必要であった。 1976 年 4 月、シハヌーク国家元首の辞任とポル・ポト内閣が公表された。ただし、共産党の存在は引き続き秘密にされた。

 上述のような経緯を見れば、ポル・ポト政権の国内的な正統性はどれほどのものであったのか、という疑問が生じよう。自らの存在を隠したまま、恐怖による統治を行ったことからは、少なくともポル・ポトら自身は自らの正統性に確信を持っていなかったことが伺われる。

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2.ポル・ポト時代の死の諸様相

 ポル・ポト時代( 1975 年 4 月 17 日〜 1979 年 1 月 6 日)の「 3 年 8 ヶ月 20 日間」に、カンボジアでは 100 万〜 200 万人が死亡したと言われている。政権奪取時の総人口が約 700 万〜 800 万人だったと推定されるため、ポル・ポト時代には人口の約 13 〜 29 %が亡くなったと推計することができる。

 これら大量の死は、場所と方法に基づいて 3 つのカテゴリーに分類することができる。

第 1 のカテゴリーが、「 S-21 に逮捕された人々」である。 S-21 とは、党中央に直属の治安警察である。ここには少なくとも 1 万 4 千人超が収監されたが、生きてポル・ポト時代の終わりを迎えられたのは、わずか 12 人であった。

第 2 のカテゴリーは、「集落で殺された人々」である。ポル・ポト時代には各地に刑務所と処刑場が設置されていた。これら地方の公安施設で殺害された人の実数は不明であり、現時点では、非常に多い、としか言えない。

第 3 のカテゴリーは、「病死、衰弱死」である。人による殺害である「 S-21 に逮捕された人々」と「集落で殺された人々」と自然死である「病死、衰弱死」を並列することに異論を唱える向きもあるかもしれない。しかし、加重な労働の強制と、共同炊事よって管理されたあまりにも乏しい食事、医療の絶望的な不備は、ポル・ポト政権下でなければ死亡しなかった人々を多く死に至らしめた。この意味において「不自然な」死であると見なすゆえに、ここに掲げるものである。また、元ロン・ノル軍兵士や新人民( 1975 年 4 月 17 日以前は解放区外にいた人々。特に都市住民。)や囚人に対して、餓死させる意図があったとしか思えない食料と労働の組み合わせの事例も報告されている。

それでは、これらの人々はなぜ粛清されるべきだと見なされたのか。「敵」と認定されたからである。この曖昧な言葉は、政権初期は「ロン・ノルのために働いた」ことを指し、政権末期には「ベトナム人に協力した」ことを指した。後者は、「ベトナム人の心をもったクメール人の体」や「カンボジア人の体でベトナム人の頭」という人種主義的な修辞でも語られた。

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3.東部管区の粛清

1977 年に入ると、ポル・ポト政権はベトナムへ越境攻撃を仕掛けるようになった。 1977 年末、ベトナム軍は国道沿いにカンボジア領内に進駐し、ポル・ポト政権に警告を与えた。党中央は東部管区に「敵」がいるために、ベトナム軍の侵攻が成功を収めたのだと考え、 1978 年 3 〜 4 月には東部管区の幹部の粛清に着手した。

 東部管区の粛清で特徴的なのは、軍司令官等のみならず、一般住民も潜在的な対ベトナム協力者と見なされたことである。 1978 年後半には、党中央の信頼が厚い中央管区軍が、東部各地で住民を虐殺した。その犠牲者数は数万〜 10 万人に達したと推計されている。さらに、東部住民であったことが一目瞭然となる衣類(青のクロマー)を支給した上で、北西部に強制移動させた。

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4.おわりに

 以上、ポル・ポト政権の成り立ちと、同政権下での死の諸様相を概観した。今後の研究課題として 2 点指摘して結びとする。

 第 1 に、S -21 については、既に比較的よく解明されている。しかし、その何十倍もの犠牲者を生んだ地方の刑務所・処刑場については、実に断片的な聞き取りがなされているのみで、実態はほとんど解明されていない。ポル・ポト時代の処刑を、国家機構による国家的暴力行為として解明する努力が払われるべきであろう。

 第 2 に、「なぜ同胞を殺したのか」という問題設定を破棄し、「敵」について考察を深めるべきであろう。ポル・ポト時代には、様々な「敵」が登場する。「敵」をなぞることを通じて、見えてくるものは多いと考える。

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【参考文献】

井上恭介・藤下超 [2001] 『なぜ同胞を殺したのか ポルポト――墜ちたユートピアの夢』 NHK 出版。

古田元夫 [1991] 『ベトナム人共産主義者の民族政策史――革命の中のエスニシティ――』大月書店。

本多勝一 [1989] 『検証カンボジア大虐殺』朝日新聞社。

Chandler , David P. [1983] “Revising the Past in Democratic Kampuchea : When Was the Birthday of the Party?” Pacific Affairs 56, No.2, pp.283-300. ( Chandler , David P. [ 1996 ] Facing the Cambodian Past: Selected Essays, 1972-1994 , Chiang Mai: Silkworm Books, pp. 215-232. に再録。 )

―――― [1999] Voices from S ?21: Terror and History in Pol Pot's Secret Prison , California: University of California Press. (翻訳は、『ポル・ポト死の監獄S 21 』山田寛訳、白揚社、 2002 年。)

Kiernan, Ben. [1996] The Pol Pot Regime: Race, Power, and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975-79 , New Haven and London : Yale University Press.

 

コメント要旨: 笹川秀夫 氏(上智大学アジア文化研究所客員研究員)

 ポル・ポト政権の政策は、しばしば「ウルトラ・ナショナリズム」と形容されるものの、カンボジア近現代史は研究の蓄積が豊かであるとはいえず、カンボジアのナショナリズムの特質も充分に議論がつくされてきたとは言いがたい。カンボジアにおいても、ナショナリズムは近代の産物だと考えられるが、カンボジアのナショナリズムがもつ特徴である反ベトナム人感情が成立した原因を、領域国家であったとは考えにくい前近代のカンボジアの「領土」をベトナムが蚕食したことに求めるという、時代錯誤に陥った先行研究が散見される。

  1863年のフランスによる植民地化以降、行政、都市の商工業、村落の農業や漁業といった分野にベトナムからの移民が多数進出した。1920年代半ばから拡大したフランス語教育によって成立したカンボジアの近代知識人は、1930年代後半から新聞などのメディアを通じて、ベトナム人官吏による行政ポストの独占や、中国系住民による商業の独占を批判し、「弱小民族」としてのクメール人が「消滅」の危機にあることを訴えるようになった。こうした批判は、他者と見なされたベトナム人や中国人とは異なる存在として「われわれ」を定義する試みだと解釈でき、この段階をもってカンボジアのナショナリズムや反ベトナム人感情が成立したと考えられる。

  1953年の独立以降は、言語学的にはクメール人に属するわけではないマレー系のチャム人を「クマエ・イスラーム(イスラーム教徒のクメール人)」と呼び、また山地の少数民族を「クマエ・ルー(上のクメール人)」と呼ぶなど、「われらクメール人」という概念を拡大することで国民統合が図られた。その結果、カンボジアでは、「クメール人」としての民族意識と、「カンボジア人」としての国民意識が混同されたまま現在に至っている。

  このように、ベトナム人は他者として排除され、チャム人やその他の少数民族は「われわれ」に包摂されたものの、誰を排除し、誰を包摂するかは恣意的な論理に基づいており、包摂されていた者もまた容易に排除されうる。ポル・ポト政権下では、ベトナム人が強制送還や虐殺の対象となったほか、チャム人もまた「われわれ」から排除され、殺戮の対象となった。さらに、狭義のクメール民族であっても、都市住民やロン・ノル政権側の村落住民を「新人民」として排除・虐殺したことも広く知られている。

  カンボジアにおけるナショナリズムの成立過程や他者認識のあり方の検討は、「同胞」の殺戮という問題設定を克服し、ポル・ポト政権下での虐殺・粛清を学問的に解明する上でも、重要な視座を提供しうると考える。

 

討論要旨

  討論の中では、ポル・ポト政権下における大量虐殺が、カンボジア現代史においてどうような位置を占めているのかが問題となった。これまでの研究においては、ポル・ポト支配の「異常性」ばかりが強調されてきたが、実際は、合理的に理解可能なものではないかという指摘がなされた。すなわち、粛清・虐殺を遂行したポル・ポト政権は、共産主義システムの一般的特徴を備えていると同時に、民族解放闘争の流れを前史として受け継ぎ、いわゆるナショナル・コミュニズムに類似している点が見受けられるのではないかという点である。しかし、コミュニズムを標榜した国家では、特に 60 年代に見られた「民族共産主義」という現象においては、国家民族による非国家民族ないしは、少数民族の追放や同化が中心であったのに対し、カンボジアにおいては、それが大量虐殺に及んでいる点に、カンボジアの特殊性があるのではないか。その点も含め、カンボジアでの大量虐殺を、ナショナリズムの観点からだけでなく、「階級敵」の観点も視野に入れつつ分析する必要性が説かれた。

 また、スターリン体制との類似性に関しても議論がなされた。少数のポル・ポト派が国家機構を握る手法は、スターリンから学んでいると考えられるが、恐怖による体制の動員の中で、だれがそれに関与し、彼らは社会の中でどのような役割を果たしてきたかについて分析してゆく必要がある。その際、「人種主義」、「民族主義」といった用語をより厳密に使い分けるべきであるという声も聞かれた。さらに、犠牲者の数が、 100 万人から 200 万人とされている点について、その内訳(1.党中央に直属の「 S- 21 」のシステムの中で殺害された者、2.各地の刑務所や収容所で殺害された者、3.病気・衰弱・飢餓により死に追いやられた者)や、加害者側の協力者・加担者などの規模も、できれば明らかにしてゆかなければならない。政治学の中で用いられる「複合人道危機」概念の有用性にも議論は及んだ。