国際シンポジウム
「ジェノサイド研究の最前線」

日程・会場他

・日時: 2004 年 3 月 27 日(土) 10:30 〜 18:00
・場所: 東京大学・駒場キャンパス 学際交流棟 3F 学際交流ホール
・日・英同時通訳付き/入場無料

プログラム

挨拶・趣旨説明: 石田勇治(東京大学)
◇総合司会: 井関正久(東京大学DESK)

第1セッション:アルメニア人虐殺
◇司会: 福永美和子(東京大学)
■報告@: 吉村 貴之(日本学術振興会特別研究員・東京大学)
     「総力戦とジェノサイド−アルメニア人虐殺の諸側面」
■報告A: Tessa Hofmann (ベルリン自由大学)
     「絶滅、免罪、否認:オスマン帝国におけるアルメニア人ジェノサイド (1915/16) のケース・スタディと比較ジェノサイド研究」
第2セッション:第二次世界大戦下のジェノサイド/比較ジェノサイド

◇司会: 井関正久
■報告B: 清水明子(東京外国語大学)
     「クロアチアの『民族浄化』」
■報告C Susanne Heim (マックス・プランク研究所)
     「ナチ・ジェノサイド研究の最前線」
■報告D 石田勇治
     「比較ジェノサイド研究の射程」

第3セッション(総合討論)

◇司会: 川喜田敦子(東京大学)
■コメント@: 林博史(関東学院大学)
■コメントA: 黒木英充(東京外国語大学)
■コメントB: 井上茂子(上智大学)

◇閉会挨拶  木畑洋一(東京大学)

 

主催:
■「ジェノサイド研究の展開」(CGS)

 

 

 

 

■挨拶・趣旨説明prof.Ishida

 

石田勇治(東京大学)

 

 シンポジウムの主催者CGS「ジェノサイド研究の展開」並びに共催者DESK(東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究室)を代表しまして一言、ご挨拶と本日の趣旨説明をさせていただきます。

 本日は年度末の大変お忙しいところ、ご来場を賜りまして誠にありがとうございます。

 今日のシンポジウムは、日本学術振興会(JSPS)が昨年12月より始めました新事業「人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業」(通称、人社プロジェクト)の一つ「ジェノサイド研究の展開」(CGS)による企画でありまして、本日は、その研究成果の一部を広く公開し、参加者の方々との議論を通して、いっそうの実りのある成果につなげようというものです。

 さて、私たちが数年前に別れを告げた20世紀は輝かしい「文明と民主主義」の時代であると同時に「戦争と虐殺」の時代でもありました。ジェノサイドはまさにこの文明の時代において、世界の各地で頻発し夥しい数の人間がその犠牲となりました。ナチ・ドイツによるユダヤ人虐殺(ショアー、ホロコースト)はその一例に過ぎません。1998年、ジェノサイドや人道に対する罪を犯した者を裁くため、国際刑事裁判所(ICC)の設立を謳ったローマ規程が国連で採択され、2002年には発効しました。

 今年2004年はルワンダでの虐殺から10年を迎えます。来年2005年は旧ユーゴスラヴィア紛争でその悲劇の象徴となった「スレブレニッツァの虐殺」から10周年を迎えます。悲しいことですが、今やジェノサイドは国際社会を語る上で不可欠な言葉となりました。

 今年の1月、ストックホルムで「ジェノサイドの予防」を主題とする国際会議が開催されました。そこに出席した国連事務総長コフィー・アナン氏は、ジェノイドの予防ほど今日緊急の課題はないと述べ、その要因の除去に全力を挙げるべきであるとの声明を発しました。

 振りかえれば、ジェノサイドを国際犯罪とした「ジェノサイドの防止と処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)が国連総会で採択されたのが1948年のことです。それから半世紀以上が経ちました。 Never again! が叫ばれながらも、いまだにジェノサイドは繰り返されています。なぜ、どのような条件の下で、ジェノサイドが起きるのでしょうか。そして人類はこれをどうすれば防ぐことができるのでしょうか。

 私どものプロジェクトは近代世界、とくに二十世紀以降の世界各地で生起したジェノサイドとその随伴現象を実証的に検証しつつ、そのしっかりとした成果の上に、ジェノサイドを予防するための理論枠組みを構築しようとしています。日本学術振興会は、日本のアカデミズムにジェノサイド研究を確立しようとする我々のプロジェクトを、「地域研究による人間の安全保障学の構築」、「アメリカ研究の再編」という二つのプロジェクトと組み合わせて、より大きな「平和構築に向けた知の再編」プロジェクトに位置づけています。人間の安全を確保し平和を構築するためには、それらを阻害する不法な集団的暴力の極端な形態であるジェノサイドの要因とメカニズムを明らかにしなければなりません。

 これまで、わが国の大学や学界においてジェノサイド問題が正面から取り上げられたことはありませんでした。必ずしもタブーであったわけではないのですが、学問的な関心を集めてこなかったようです。たしかにホロコーストについてはいくつか優れた研究はありますが、ジェノサイド一般となると、それは未開拓の分野に属します。カンボジ ア、グアテマラ、東チモール、ルワンダ、旧ユーゴスラヴィアなどの「現代ジェノサイド」についても、 当該地域研究者による個別研究はありますが、それらが相互に比較検討されることも、またナチ・ジェノサイドのような「歴史的ジェノサイド」の研究成果を参照することもこれまでほとんどありませんでした。

 私どものプロジェクトは、従来の専門の壁を取り払い、対象とする地域・時代、ディスプリンを異にする50名以上の研究者を糾合し、ジェノサイドがなぜ、どのような条件下で起きるのか、またジェノサイドがもたらす社会変容、和解の可能性や加害者の処罰や補償などの問題に取り組んでいます。研究の概要については、是非ホームページをご覧下さい。

 あまり長くなるといけませんが、ジェノサイドの定義について一言だけ触れておきます。ジェノサイドは、先のローマ規程と 「ジェノサイド条約」において明確な定義が与えられている国際法上の概念です。それによると、ジェノサイドとは、国民的 national 、民族的 ethnical 、人種的 racial または宗教的 religious な集団 の全部または一部を、それ自体として破壊する意図 をもって行われる殺人などの行為をさします。

この定義については本プロジェクトでもさまざまな議論がありますが、ここでは深入りせず、集団の全部または一部を破壊する意図の存在が重要であるとこと、またジェノサイドは、それ自体を目的として行われることはほとんどなく、大抵の場合、何らかの別の目的の為に行われることに注意を促したいと思います。例えば、戦争に勝利する、治安を維持する、経済的資源を確保するなどの目的のためです。

さて、本日のシンポジウムでは二十世紀前半に生起した次の三つの大規模なジェノサイドを取り上げます。

1)トルコでのアルメニア人ジェノサイド、2)クロアチアでのセルビア人ジェノサイド、それに3)ナチ・ドイツによるジェノサイドです。

 3つの内、最初の二つについて、日本の学術シンポジウムで取り上げられるのは今回が初めてであると思います。ナチ・ドイツについても、本日のお話は、一般に流布しているイメージとはかなり異なることをお聞きになると思います。

 本日はいわゆる「歴史的ジェノサイド」を取り上げるのですが、なぜこの3つのジェノサイドを取り上げたかについては、後ほどあらためてお話ししたいと思います。それでは、6時までの長丁場ですが、どうぞ最後までおつきあい下さいますようお願いいたします。

 

■報告@: 「総力戦とジェノサイド−アルメニア人虐殺の諸側面」mr.yoshimura


吉村 貴之(日本学術振興会特別研究員・東京大学)

 

 1915 年にオスマン帝国(現在のトルコ)下で発生したアルメニア人虐殺に関する情報は日本では、一部の専門家を除いてほとんど知られていない。しかし、この事件に関する研究はトルコを含めた欧米では数多く存在する。それを分類すると、アルメニア人虐殺が「ジェノサイド」であると主張する、 V. ダドリアンを中心とする欧米のアルメニア系の研究者と、アルメニア人虐殺を「アルメニア人のテロリズム」と捉えるか、虐殺そのものの事実を否定する E. ウラスらトルコ人研究者が存在する。

 もっとも、こうした研究の多くには共通して抱える問題がある。第一に挙げられるのが、事件前後の歴史的な事実関係に不明な点が多く、歴史研究の妨げになっている点である。特にアルメニア人移送・殺害の実行者の命令系統や犠牲者の数については諸説あり、事件の全体像も謎のままである。

そしてもう一つ重要なのが、虐殺研究がアルメニア人を取り巻く政治的環境に強く影響されていることである。すなわち、この虐殺の認定をめぐってはアルメニア人社会とトルコ政府との間で全く合意がなく、未だにアルメニア、トルコ間の政治問題であるために、研究者も自らの政治的立場を立証する議論に陥りがちになる点である。例えばアルメニア人側の立場では、虐殺をユダヤ人ホロコーストと結びつけようとし、虐殺当時のオスマン帝国首脳部が掲げていたパン・トルコ主義をヨーロッパの反ユダヤ主義と同一視する。また、軍事面での近代化が進行していたとはいえ、基本的には農業に基盤を置いた官僚国家であったオスマン帝国と工業化や大衆社会化が完成しつつあったナチズム体制とは、社会構造の面で当然異なっている。それを無視して両者を比較しても、事件の性格は浮かび上がってこない。

一方、トルコ人側の立場では、 1970 年代のアルメニア人過激組織( ASALA )のテロリズムをそのまま過去に投影し、アルメニア人政治運動をオスマン帝国からの分離主義に基づく残虐行為と見なし、 1915 年の事件はアルメニア人テロを防衛したものに過ぎないとして虐殺の存在そのものを否定する。

 しかしこうした捉え方では、なぜ 1915 年のアルメニア人虐殺においてアルメニア人の文化的中心であったイスタンブルのアルメニア人地区では犠牲者が軽微で、むしろロシア、オスマン両帝国の国境付近のアルメニア人居住地域に犠牲者が集中したのかという疑問に対しては全く説明が付かない。そのためこの論考では、アルメニア、トルコ両民族の民族主義運動の性格付けだけではなく、第一次大戦中にオスマン帝国に派遣されたドイツ軍事顧問団のアルメニア人虐殺への関与も考察に加えることとする。

 この事件そのものの検討を行う際に重要なのは、アルメニア民族運動の性格について政治的な理由でこれまで十分に検討されてこなかった点である。そこで、この点についても吟味してみたい。

 まず、スルタン(オスマン皇帝)に服属するキリスト教徒アルメニア人という構図は、とかく抑圧的支配というイメージを与えがちであるが、 当初から政府による抑圧があったというわけではなかった。特に 19 世紀にはアルメニア人銀行家ならびに商人が、徴税請負権や貿易権を獲得し、帝国経済の先導者となった。しかしながら、政治の面では、アルメニア人ミッレト(宗教共同体)内の自治は認められていたとはいえ、国政への政治参加は不十分であった。

 そして、西欧での 1848 年革命の影響で知識人を中心に民主主義運動が開始されるが、当時アルメニア人はオスマン帝国とロシア帝国に分かれて居住していたという点は強調しておきたい。両帝国内でほぼ同時に発生したとはいえ、ロシア帝国のアルメニア民族運動とオスマン帝国のアルメニア民族運動とでは運動の特徴が異なっていた。ロシア帝国内のアルメニア人知識人はモスクワで学び、ロシア人の革命運動の影響を受け、帝政打倒を目標とする者が多かった。これに対して、オスマン帝国内のアルメニア人はトルコ人が中心となって繰り広げていた「新オスマン人」運動の影響を受け、立憲主義を掲げる者が多かった。そのため、ロシアのアルメニア人民族運動家(例えば、 M. ナルバンディアン)からはオスマン帝国の同胞の社会は極めて異教徒に妥協的で改革への意志が不徹底との評価が下された。

ところで、オスマン政府は 1856 年キリスト教徒とムスリム(イスラーム教徒)との法的平等を謳った改革勅令を発布、社会構造の変革に乗り出した。そして、 1878 年ロシア・オスマン(露土)戦争の戦後処理をめぐって開催されたベルリン会議では、列強間でオスマン帝国内のアルメニア人自治について議題となった。会議で提出された条約第 61 条では、「オスマン政庁は、これ以上滞りなく、アルメニア人が居住する諸州で要求される改善と改革の実行ならびにチェルケス人やクルド人の攻撃に対する住民の安全保障に努める」よう、オスマン帝国に迫った。

 しかし、政治的・軍事的にイスラーム教徒が主導してきた社会を一挙に民主化しようとすることは多くの困難を伴い、改革に反対するイスラーム教保守勢力と改革に不満なキリスト教徒民族主義活動家との対立を激化させることになる。アルメニア人社会も例外ではなく、主に西欧帰りの知識人を中心にさらなる国政参加を求める運動が進展し、複数の民族主義政党の成立を促した。

 その一方で、ロシア帝国内の同胞の民族主義運動も活発化していて、アルメニアを代表する民族政党である アルメニア革命連盟(いわゆるダシュナク党)が、 1890 年にチフリス(現グルジア共和国の首都トビリシ)で結成された。党は政治活動において武力闘争を行った。 特に爆弾闘争については、ロシアのナロードニキ政党である「人民の意志」党から学 び、反ツァーリ(ロシア皇帝)運動を行うのみならず、オスマン帝国からの同胞の「解放」を目論み、オスマン帝国内でテロ事件を引き起こすことになる。

 ここで注意を促しておきたいのは、民族運動の急進化にあたってはロシアの革命運動に感化されたアルメニア人政治団体の役割が大きいことである。彼らが、同胞の「解放」のために革命的民主化運動をオスマン帝国に輸出しようとしたことで、事態がいっそう複雑化したとも言えよう。その典型例が、 1896 年8月 24 日にイスタンブルで起こったオスマン銀行占拠事件であった。ダシュナク党の支持者と目される B. スーニーがオスマン銀行を武装占拠して、帝政のさらなる改革を要求、犯人は国外逃亡したが、数日後にイスタンブルのアルメニア人街が襲撃され、多数の犠牲者が出た。

 また、 1908 年7月 23 日には統一と進歩委員会(いわゆる青年トルコ党、以下「統一進歩」と略記)やダシュナク党などの民主主義勢力によってスルタン、アブデュル・ハミト2世が幽閉され、「統一進歩」主導の立憲君主制に移行したが、翌 9 年4月 13 日イスタンブルで起こったスルタン派の反乱きっかけに「統一進歩」内で中央集権派と地方分権派との対立が表面化した。

結局、地方分権主義をとるダシュナク党は、「統一進歩」の政府に武力闘争で対抗していくことになる。 1914 年に第一次大戦が勃発し、ロシア帝国とオスマン帝国とが交戦状態に入ると、ロシア領内のアルメニア人活動家は、ロシア軍に従軍あるいは独自の攻撃部隊を編成してアナトリアに侵入した。

 一方、オスマン政府内では、 13 年1月 23 日には大宰相府襲撃事件が起こり、エンヴェル、タラートらによる独裁体制が始まる。そして、 14 年8月2日にエンヴェルらは独断でドイツと協定を結び、これによってオスマン帝国はドイツ側に立って第一次大戦に突入した。そして、エンヴェルらにとってこの戦争は宿敵ロシアに奪われ続けた領土を取り返し、ロシアから浸透するダシュナク党の影響を断ち切るまたとない好機であった。

同時に、オットー・リーマン・フォン・ザンデルスを団長とする軍事顧問団がオスマン帝国に派遣され、オスマン軍の作戦に参画する。中には、参謀本部作戦部長のフリッツ・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ、オットー・フェルドマン、ドイツ大使館付海軍武官のコルマール=フライヘル・フォン・デル・ゴルツ、さらに、オスマン軍第三方面隊(コーカサス前線)のドイツ人武官フェリックス・グーゼなどは大きな影響を与えた。 10 月 28 日にはオスマン海軍はスション提督の指揮の下、ロシア海軍を攻撃した。

 第一次大戦中の 15 年4月8日、ヴァン地方(現在のトルコ東部)のアルメニア人の反乱を契機にアルメニア人移送作戦が計画されたと言われる。そして、オスマン帝国の著名なアルメニア人政治家や知識人( G. ゾフラプ , スィアマントなど)が、官憲に連行され殺害された4月 24 日をアルメニアでは「虐殺の日」としている。

以後、オスマン政府はロシア国境地帯のアルメニア人をシリア、イラク方面に追放した。これによる栄養失調死やクルド人の襲撃、さらには住民のロシア逃亡でアナトリア東部のアルメニア人人口は激減した。その後イギリス、フランス、ロシアとアメリカの首脳部は、ドイツ人武官が「統一進歩」にアルメニア人の強制追放と撲滅を教唆し、ジェノサイドの隠匿を援助したことを告発した。しかしドイツでは情報統制のため、世間では議論とならなかった。

 それでも、 15 年から 16 年にかけてケルニシェ・ツァイトゥング紙のイスタンブル特派員だったハリー・シュテュルマーは、「最上位に至るまでのあらゆる階級の」ドイツ人たちから、事実に基づかない、アルメニア人に対する悪意ある表現、視野の狭い中傷」を聞いたと記している。さらに彼はドイツの武官たちが、「アルメニア人集団虐殺の援助を冷たくも主導した」事例を挙げた。また、在イスタンブル大使館付きの牧師グラフ・フォン・リュウティハウは 18 年のレポートで、「ドイツには戦争遂行のためにオスマン帝国が必要で、その事実がアルメニア人ジェノサイドを可能にしたのであろう。 ドイツ人高級武官は、政治的結果は意に介さないで、常に大きな被害を与える軍事戦略に関する助言を繰り返し与えた 」と述べている。また、エルンスト=フォン・クヴャトコフスキーの 15 年 10 月 22 日にドイツ領事館から送った電報には、「信頼できるドイツの情報筋によると、アルメニアを中立化するようにとの最初の示唆は、その経路は秘匿されているとはいえ、ドイツ側から出された。」との報告もある。 

 この虐殺・追放に対するアルメニア人側の報復として 1921 年3月 15 日、ベルリンで起こった「タラート・パシャ暗殺事件」の公判をめぐる議論で、アルメニア人虐殺の一端が明らかになる。公判中、ベルリンのドイッチェ・アルゲマイネ紙は反アルメニア・キャンペーンを展開し、タラート・パシャの無実を主張した。これは、駐イスタンブル大使館付海軍武官ハンス・フーマンの強い影響下にあり、 21 年6月の記事では、「アルメニア人が数千人ものムスリムを殺害したため、トルコ人が 自衛手段に出たも ので、エンヴェル、タラートには罪がない」という論調であった。また、ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ、オットー・フェルトマンとフェリックス・グーゼの立場も問題になった。シェレンドルフの主張では、「タラート・パシャは、二心あるアルメニア人に対して正当な処置を執った」として、オスマン帝国とドイツの関係を強調した。グーゼは 14 年から 17 年までカフカース戦線でプロイセン軍高級将校として勤務していたが、 21 年6月の記事で、オスマン帝国下のアルメニア人全体を激しく非難し、「アルメニア人の蜂起のためにロシア軍が( 15 年5月から)攻勢に出たのだ」と主張した。グーゼの論考の数日後、今度はフェルドマンの論考が出て、「アルメニア人を排除するようにオスマン軍側に忠告したことは否定できないが、それを実行したのはオスマン軍」だと自らの行為を正当化した。

 以上、ドイツ人軍事顧問団のアルメニア人虐殺への関与を示唆する例を紹介したが、無論、同盟国ドイツからオスマン帝国へ派遣されてきた者すべてがアルメニア人の移送に対して賛成だったと即断することはできない。この決定へのドイツ人の関わり方もまた多様であった。その例として、バグダッド鉄道会社のアルメニア人労働者の扱いをめぐる軍と会社の対立について紹介することにする。

 バグダード鉄道のオスマン部門の主要スタッフを支配していたのはドイツ人のベトリヒ中佐で、オスマン政府の目的と合致するような方針を打ち出していた。ベトリヒは「統一進歩」のアルメニア人移送政策に賛同することでオスマン政府の支持を取り付け、会社に影響力を行使するするねらいがあった。

その上、アマノス山(現在のトルコとシリアの国境付近)の鉄道建設現場のアルメニア人労働者を移送してしまうとオスマン軍のいくつかの部隊への補給に問題が生じることが分かっても、ベトリヒはオスマン政府の方針を支持し、鉄道会社側の抵抗を妨害した。そのためアルメニア人虐殺においては重要な位置にあったと目されている。

 このため、ドイツ大使館が彼を会社から排除しようとした際も、オスマン政府特に陸軍相エンヴェル、参謀本部作戦部長のブロンサルト・フォン・シェレンドルフはベトリヒを擁護し、軍最高指揮官のフォン・ファルケンハイン将軍はこれに対して有効な処置を取れなかった。

また、オスマン政府はアルメニア人撲滅を行うに及んで、鉄道会社のアルメニア人労働者の追放も決定した。政府は目標を実現するために 2 つの戦略をすえた。それは、アルメニア人労働者の移送に関して鉄道会社の同意を取り付ける一方で、下部機関を使ってこの政策に政府が関わっていなかったように装う既成事実作りをするための外交努力をおこなった。

「統一進歩」はドイツ人軍人と協力するに当たって、中央政府と士官、さらに地元当局の協力を隠匿しようとした。そのために、公式指令と秘密指令を使い分け、バグダード鉄道のドイツ人関係者に示された指令が後の秘密指令で覆された。さらに、 1916 年にマラシュの知事がアルメニア人移送に反対したり、鉄道移送が妨害されたりといった危機的な状況となった場合は、事態打開のために特別編成の執行部隊が投入され、アルメニア人の移送に関してもイスタンブルのドイツ人軍人が直接監視した。

一方、バグダッド鉄道会社には自社の権益を守る必要があり、その一つがアルメニア人労働者の確保で、オスマン政府との対立は必至の状況だった。そのため、ドイツ銀行から派遣されてきた総裁フランツ・ギュンターはタラートにアルメニア人労働者を移送してしまうとガリポリ半島(ダーダネルス海峡沿い)の部隊への補給が行えなくなり、オスマン軍が敗北しかねないと進言した。そのため、タラートは 1915 年 8 月 29 日に一旦はアルメニア人労働者の移送を断念した。

ギュンターの説得は実利的な目的と同時にアルメニア人に対する同情も含まれている。すでに会社側にアルメニア人虐殺の情報は入ってきていて、ドイツ大使館に情報を提供するとともに、ドイツ軍の方針を変えさせるように働きかけた。

しかし、会社側の抵抗は功を奏さず、翌 16 年の 6 月にはアマノス山のアルメニア人労働者は移送された後に殺害されることになる。なぜなら、イギリス軍がクテルアマラ(現在のイラク南部の都市)で撃破され、戦争捕虜がアルメニア人労働者を補ってあまりあるほどとなり、オスマン政府にとってアルメニア人は不要となったのである。

 

・結論

 アルメニア人虐殺は、オスマン帝国の解体期におけるアルメニア民族主義とトルコ民族主義の衝突を背景に発生した事件であったことは論を待たない。しかし、なぜとりわけアルメニア人が第一次大戦中に移送や殺害の対象となったのかについては、「ロシア攻略上、潜在的第五列を排除する必要性」および「戦争遂行のための労働力の確保」という戦略的要因をもってしか説明がつかない。この点で、総力戦という軍事的要請の下で政府が住民を選別し、移送・殺害した事件であった可能性が高い。

 その際、ドイツ人軍事顧問団の関係者がオスマン軍高官に「影響力」を行使した点は注目に値する。しかし、いつどこで顧問団の軍人たちがエンヴェルやタラートらに戦略論を助言したり、強制移住について指示を与えたりしたかを決定するのは現在のところ難しいが、アルメニア人に対する処置が単にオスマン帝国首脳部による絶滅政策だっただけなく、顧問団の要求でもあったことは第一次大戦後のドイツでの議論やバグダード鉄道のアルメニア人労働者の扱いをめぐる会社とオスマン政府とのやり取りから伺える。

なお、第一次大戦後にはドイツ軍人たちやそれを支持する層が、「裏切り」、「貪欲」、「憎むべき商人」といったアルメニア人イメージを本国で広げようとしている。これが反セム思想を唱える集団のユダヤ人イメージと酷似していることは、後のホロコーストとの関連性を考える上で示唆的な現象と言える。

 

■報告A: 「絶滅、免罪、否認:オスマン帝国におけるアルメニア人ジェノサイド (1915/16) のケース・スタディと比較ジェノサイド研究」hoffman

 

Tessa Hofmann (ベルリン自由大学)

 

ジェノサイドの定義

 「ジェノサイド」とは、ある国民や民族集団の破壊を指す。 (...) 一般にジェノサイドは、国民の全構成員の大量虐殺によって完遂される場合を除けば、必ずしもある国民を直ちに破壊することを意味するわけではない。むしろそれは、集団自体の絶滅を目的として、国民的諸集団の生存の基本的な基盤を破壊しようとする様々な行為を合わせた企図を表そうとするものである。そのような企図がめざすのは、国民的諸集団の政治的、社会的諸機構、文化、言語、国民感情、宗教そして経済生活の解体であり、また人間の安全、自由、健康、尊厳、さらにはそれらの諸集団に属する個人の生命の破壊であると言える。ジェノサイドは統一体としての国民集団に向けられ、それに関わる行為は個人に向けられる。彼らの個人的な能力のためではなく、彼らが国民集団の構成員であるがゆえに。 (...) ジェノサイドは二つの位相をもつ。ひとつは、被抑圧集団の国民的様式の破壊であり、もうひとつは、抑圧者の国民的様式の強制である。この強制は、次には、存続を許された被抑圧者の人々に対して行われるかもしれず、あるいは、人々が排除されその地域が抑圧者自身の国民によって植民地化された後に、もっぱら領域に対して行われるかもしれない。

Raphael Lemkin: Axis Rule in Occupied Europe . Washington DC , 1944, p.79f.

0. イントロダクション

0-1. 征服され分断された国、離散した民族:アルメニア史の基本的要素

 中近東北方の広大な高原に位置するアルメニアは、戦略的重要性から、地域諸勢力の争いの種となった。 3000 年近くに及ぶアルメニア史の最古の時代を特徴づけるのは、戦争による荒廃、征服、外国支配や外国法、争いあう支配者の間での国土の分断である。 1071 年にセルジュークトルコがアルメニアを征服すると、数十万人のアルメニア人が故国から逃れた。これがアルメニア人のディアスポラ ( アルメニア語で spyurk) の起源で、離散者の数は歴史的な危機が生じるたびに増加した。 800 万〜 900 万人と算定される世界のアルメニア人口のうち、今日アルメニアに住むのはわずか 250 万人である。

0-2. オスマントルコの支配下で:「被支配民( raya )」の一部としてのアルメニア人。法的解放の試み、ヨーロッパの介入、改革の失敗とトルコの反動的ナショナリズム:ジェノサイドの舞台の完成

 アルメニアをめぐるイランとトルコの争いがディヤルバクル条約によって終結した後、アルメニアは分断され、ほぼ全域がオスマン帝国の支配下に入った。キリスト教徒のアルメニア人は、他の非ムスリム諸民族と同様に被支配民、「 raya 」として扱われ、キリスト教の信仰を許されたものの、多大な制約を受けることになった。彼らは忠誠心を疑われて兵役から排除され、追加税を課された。また、蔑視されるマイノリティに属することを服装によって明示しなければならなかった。ムスリムの慣習法では、ユダヤ教徒やキリスト教徒はムスリムの保護下に置かれ、多くの市民的諸権利を欠くとされていた。

19 世紀に入ると、ヨーロッパ列強、とくにイギリス、フランス、ロシアはオスマン政府に対し、内政上の諸問題を改革によって改善することを要求し、オスマン政府は幾度かの軍事的敗北の後に、しぶしぶこれに屈服した。 1839 年から 1876 年の「タンズィマート」 i 時代には、すべてのオスマン帝国市民に法的平等を約束する二つの勅令が布告され、 1876 年の最初のオスマン帝国憲法は平等を保障した。しかし、こうした動きはアルメニア人の置かれた状況の抜本的変革にはつながらなかった。オスマン帝国憲法は、多様な住民の間に政治的、法的ヒエラルキーを生み出す原因となっていた「ミッレト」制度を存続させる不完全な内容のものだったが、スルタン・アブドュルハミト 2 世 (Abdulhamit II) はこの憲法ですら即座に停止させ、アルメニアに関する改革を拒んだのである。

 植民地が次々と独立し封建的な帝国が崩壊していく背景を前に、オスマン政府は、 1878 年のベルリン会議で受け入れた「アルメニア改革」の実行をせき立てるヨーロッ諸国に、次第に苛立ちをつのらせていった。アブドュルハミトは、オスマン帝国の崩壊を「汎イスラム主義」、すなわち帝国のムスリム諸民族を統一し、彼らの宗教的バイアスをオスマン帝国の「不忠の」キリスト教徒に向けることによって阻止しようとした。 30 年にわたってあらゆる改革の実行を阻むことに成功したアブドュルハミトは、ヨーロッパ人の改革要求がリップサービスに過ぎず、彼らがカトリック、ギリシア正教のいずれの宗派にも属さない「分派の」アルメニア人のために介入することなどないと悟っていた。

1894 年〜 1896 年には、サスン、コンスタンティノープル、エルズルム、トラブゾン、ウルファ、ヴァンその他の諸都市で、アルメニア人を標的とする連続的なポグロムが発生し、 30 万人におよぶアルメニア人が殺され、 10 万人以上が国から逃れた。さらに、 1909 年 4 月には、キリキア(トルコ南東部)で新たな虐殺が起き、 3 万人が犠牲となった。この虐殺は、ショーヴィニストの「統一・進歩委員会( CUP : Committee of Union and Progress 、トルコ語で Ittihat ve Terakki Cemiyeti )」が、アブドュルハミトの支配をクーデターによって打倒した後に発生した。

1. 「 Mets Yerern 」‐大犯罪:ジェノサイドのプロフィール

1-1. 初期段階

(a)イデオロギー上の準備:自己防衛における犠牲者集団の非人間化

 ジェノサイドは犯行者の思考の内ではじまる。人間や同胞市民でさえもが伝統的に蔑視され、あるいは軽視され、時に裏切り者、「内なる敵」、さらに悪い場合には全国民の健康体を脅かす「細菌」や「ウイルス」、はては「癌」にまで貶められる瞬間に。ある CUP 高官は次のように言った。「アルメニアの山賊どもは、祖国 (vatan) の国体 (b unye) を苦しめた やっかいな有害細菌 (mikloplar) だ。 細菌を殺すのは医者の義務ではなかったか?」 1 また、他の者たちは、オスマン帝国のキリスト教徒の臣民を雑草に、犯行者の任務を庭の雑草を除去しなければならない庭師に例えた。「浄化」という表現は青年トルコ人運動に由来する。犯行者の心理のもうひとつの特徴は、防御的姿勢である。ジェノサイドで用いられる弁明によれば、犯行者は自己防衛のために殺害を行うのである。

(b)潜在的抵抗の排除

 ジェノサイドの犯行者の見方に立つと、ジェノサイドの計画は準備の初期段階で潜在的抵抗を排除することを必要とする。 CUP は、アルメニア人のなかで政治的にもっとも活動的な二つの社会主義政党、フンチャク党 (Hntchak) とダシュナク党 (Dashnaktsutyun Party) の抵抗を予想し、これらを弾圧した。二つの政党は過去にアブデュルハミト体制に対する闘争を行ったものの、 1908 年の青年トルコ人革命の後はそうした活動を停止していた。しかし、早くも 1914 年 7 月 14 日には、フンチャク党の指導者パラマズ (Paramaz) と同党の 19 人のメンバーが逮捕され、およそ 1 年後に絞首刑となった。これに続いて 1915 年 4 月初めまでに、かつて亡命した CUP の政治的同盟者であったダシュナク党員も大多数が逮捕された。

CUP は、また、宗教に関わりなく全オスマン市民 2 を対象とする国民皆兵制を導入し、労働部隊での強制労働を通じてキリスト教徒を迫害した。まず、 18 歳から 45 歳かそれ以上の年齢までのギリシア人が徴兵された。 1914 年 9 月にはアルメニア人が対象となり、 16 歳から 60 歳までのアルメニア人が徴集された。彼らは、戦闘部隊のために糧食や大量の弾薬の重荷を運ぶいわゆる「搬送大隊 (hamalar taburla ri ) 」と、道路整備に従事する「労働大隊 (amele taburlari) 」から成る、総数 120 の部隊に編成された。この時期のオスマン帝国軍の労働部隊は、非ムスリムによって構成されており、大多数がアルメニア人であった。労働条件は苛酷を極め、何千人もが飢え、極度の疲労、伝染病で死亡した。それらを生き延びても、ひとたび任務を完了すると銃剣で刺し殺された。

1909 年の虐殺の後、オスマン政府は、キリスト教徒に自衛のための小火器の所有を許したばかりでなく、武器を入手することを奨励し、強要さえした。これらの銃を没収するという口実のもとに、 1914 年秋に虐殺が開始された。アルメニアの村々、諸都市、居住区が襲撃された。男性住民としばしば司祭に拷問と侮辱が加えられ、女性が強姦された。テロを受けたアルメニア人は、隠し持っているとされた武器を「引き渡す」ことに同意した。たとえ法外な高値のついた武器を買い揃えねばならなかったとしても。没収された銃は写真に撮られ、アルメニア人の蜂起や裏切りをでっちあげる証拠として使われた。

 このような状況下では、ジェノサイドに対する組織的抵抗は不可能であった。しかし、いくつかの都市では、増大する迫害や最終的な絶滅に対して抵抗が試みられた。最初の事例は、ムスリム人口を上回るアルメニア人が居住していたヴァン市である。ヴァン州で 2 万 4 千人のアルメニア人が虐殺された後、 7 万人のアルメニア人が迫害を逃れてヴァン市のアルメニア人居住区に流入し、 1915 年 4 月 7 日(旧暦)からロシア軍が到着するまでの一ヶ月間、自力での防衛に成功した。ヴァンでの抵抗は、オスマン政府によって直ちにジェノサイドの促進と報復の正当化に利用された。

(c)犠牲者集団の無力化:アルメニア人エリートの除去‐ 4 月 24 日の意味

 コンスタンティノープルのアルメニア人コミュニティの歴史は、 6 世紀に遡る。 19 世紀には、「ポリス」(=コンスタンティノポリス)はアルメニアのもっとも重要な文化的拠点のひとつとなった。 1915 年の 4 月 24 日以来、多数のアルメニア人が逮捕された。彼らは、コンスタンティノープルの中央刑務所に 2 、 3 日間収監された後、アンカラ近郊のアヤスやカンキリの村々に移送され、そこで裁判にかけられた。著名なアルメニア人はさらにアダナとアレッポを経由してディヤルバクルへと送られた。トルコ人研究者アクチャム( Ak c am) によれば、逮捕者の総数は 2,345 名にのぼる。解放された者はごくわずかで、幾人かは移送の途中で殺され、他の者はディヤルバクルで拷問を受け、裁判にかけられ、殺害された。

 「 4 月 24 日」 ( アルメニア語で april ksanchors) はジェノサイドの開始点であり、優れた詩人やジャーナリスト、学者、精神的指導者を含むアルメニア人エリートが殺害された日となった。それゆえ、アルメニア人コミュニティは、毎年この日を服喪の日として記念している。

1-2. ジェノサイドのピーク:主要な段階

(a)虐殺とホロコースト;言葉の歴史的起源の説明

 虐殺は絶滅の最初の段階で起きた。なぜならその主要な目的は、テロと潜在的抵抗の排除だったからである。それゆえ、もっぱら成人男性が犠牲となった。彼らは、監視のもとで町々から連れ去られ、近隣の人里離れた場所で殺害された。

 アルメニア人虐殺では、しばしば犠牲者を生きながら焼き殺す方法が用いられた。焼殺はすでにアブデュルハミト 2 世の統治下で実施され、 1895 年 12 月 29 日にはウルファの大聖堂で 3000 名のアルメニア人が焼き殺された。アメリカ使節コリナ・シャタック (Corinna Shattuck) は、ある書簡のなかで、この事件をホロコーストと記述している。この表現は、ユダヤ系フランス人のジャーナリスト、ベルナール・ラザール (Bernard Lazare) が 1898 年に、また、イギリス人ダケット・ Z ・フェリマン (Duckett Z. Ferriman) が 1909 年 4 月のアルメニア人虐殺について書いた書物のなかで、繰り返して用いている。

 焼殺は、 1916 年にメソポタミアの強制収容所を一掃する際にも、大量虐殺の手段として頻繁に繰り返された。 1916 年 10 月 9 日、ダイラッズール(デイレッゾール)の警察長官ゼキ・ベイ (Zekki Bey) は、「巨大な木材の山を積み上げ、山全体に 200 缶の石油を撒くように命じた。彼はそれに火を付け、手足を縛られた 2 千名の孤児たちを薪の山に投げ込んだ。」 3 ダイラッズールの同じ町で、オスマン軍のユダヤ人将校エイタン・ベルキンド (Eytan Belkind) は次のような出来事を目撃した。「アルメニア人はアザミとサンザシを集め、それを巨大な山に積み上げるよう言われた。およそ 5000 人のアルメニア人全員が手と手を縛られ、サンザシの山の周囲に並べられた後、火が放たれた…巨大な炎のなかで焼き殺された不幸な犠牲者たちの悲鳴は、何マイルも先まで聞こえただろう。」 4 シリア北部にある石油の豊富な地域の洞窟も、大量焼殺に利用された。 8 万人が虐殺されたシャダーダ(シリア)の洞窟は、今日でも「アルメニア人の溝 (Chabs el-Ermen) 」と呼ばれている。 5

(b)死の行進としての移送

 古代以来、中近東の支配者は、自己の体制を強化し彼らの王国の経済を促進するために住民を移送してきた。それは古代アッシリアやイランの統治者、ビザンツ皇帝やオスマンのスルタンの慣習であった。しかし、 1915 年 2 月にキリキアで開始され、その後、東部諸州で続いたアルメニア人の強制移送は、この伝統とは異質のものだった。 CUP は、移送開始から 3 ヶ月後の 1915 年 5 月 27 日に、閣僚評議会が公布した「暫定法」によって、移送に法的装いを与えた。

 著名なアルメニア人の逮捕、殺害と成人男性の労働部隊への徴集の後、残った住民たちは 2 、 3 日、時には数時間以内に住居を立ち退くよう通告された。携行を許されたのはわずかな所持品だけで、移送を前に最も値打ちのある貴重品が市場価格をはるかに下回る安値で売却された。移送される人々は年齢や性別や健康状態に関わらず、移送の大部分を徒歩で移動しなければならず、当然ながら、老人、幼児、病人、身体の不自由な女性や妊娠した女性が、行進の最初の犠牲者となった。最も険しく体力を消耗する、そしてできるだけ人気のないルートが選ばれた。死の行進の計画者が、目撃者を避けようとしたためである。移送途中の無防備なアルメニア人は、現地ムスリム住民の賊団から略奪や暴行を受け、「特務機関」の部隊によって殺害された。

 死の行進は、アルメニア人の移送に近接した地域に住む現地のムスリム住民に、二次的な犠牲をもたらした。移送されたアルメニア人は衛生状態の悪さからチフスや他の伝染病に感染した。死体は埋葬されないまま、しばしば飲料水用の井戸の周囲に放置された。チグリス川とユーフラテス川は、アルメニア人たちが渡った後に浮かんだ多数の死体の血で赤く染まった。少なくとも 100 万人のムスリム市民が、移送される人々から感染しチフスの犠牲となった。「それは殺されたアルメニア人の、悪党どもへの復讐だった。」と、オーストリアの軍事全権大使、ヨーゼフ・ポミアンコフスキー (Joseph Pomiankowski) は書き記している。

(c)1916 年の強制収容所の清算

 途上での虐殺、消耗、餓死にもかかわらず、移送された約 87 万のアルメニア人がシリアとメソポタミアの砂漠地帯にたどり着いた。ユーフラテス川の堤防に沿って走るバグダード鉄道の駅の近くに、複数の強制収容所が建設された。生存条件は破滅的で 6 〜 7 ヶ月という非常な短期間に、伝染病や飢えで何万人もが死亡した。しかし、それでも、この地でのアルメニア人の集中は、ある地域における一民族集団の割合を 6 %以下にとどめるという CUP の移送の理念に反した。そのため、 1916 年春に絶滅の第二段階が開始された。大多数の収容所が「特務機関」の殺戮部隊によって「浄化」された。彼らは収容所の住民を次々と虐殺し、何万人もの人々を石油の出る洞窟を使って焼き殺すか窒息死させた。別のケースでは、アルメニア人は砂漠地帯の奥地に追放され、餓死かチフスによる「自然」死のなかに投げ入れられた。これらの虐殺の結果、メソポタミアに集められた全 87 万人の アルメニア人 のうち、 63 万人が死亡した。

2. 免罪と否認

2-1. 正義が行われない理由

1915 年 5 月 24 日、イギリス、ロシア、フランスは早くもオスマントルコ政府に対し、共同の抗議声明で警告した。「およそひと月にわたり、アルメニアのクルド人とトルコ人は、オスマン政府の黙認としばしば先導のもとで、アルメニア人を虐殺している。( ... ) 人道性と文明に対しトルコが犯しているこれらの新たな犯罪に鑑みて、連合国政府はオスマントルコ政府に対し、オスマントルコ政府のメンバー全員と虐殺に関与した執行員たちが、これらの犯罪に対して個人的責任を負っていると見なすことを公式に通告する。 ii

 しかし、第一次世界大戦に勝利した連合国の間の、中近東における政治的、経済的競合は、正義の欠如と免罪をもたらした。 1919 年から 1922 年の間に、いまやソヴィエトの支配下にあったロシアならびにフランス、イギリスは、アンカラにおけるショーヴィニスティックなケマル派の蜂起を抑えられなかったばかりでなく、材料物資の供与や財政支援を行い、二国間協定を結んだ。ケマル派の政府が、小アジア(=アナトリア)のギリシア人を主たる標的としてテロ、追放、絶滅から成る CUP 構想を続行していたという事実にも関わらずである。当初パリ講和会議 (1919) とセーヴル条約 (1920) では、アルメニア人代表に対して領土配分が約束されたが、ローザンヌ条約 (1923) はアルメニア人にも、アルメニア人の故国や国家にも言及しなかった。これによって、明確な目標に基づく 10 年間の単一民族化の帰結とオスマン帝国での 300 万人以上のキリスト教徒の死は、条約署名国による暗黙の承認を得たのだった。

 停戦の後、オスマン議会は、小アジアとトラキアにおけるアルメニア人とギリシア人の移送、殺害も含めて、 CUP 体制の犯罪を調査する委員会を設置した。 1919 年 1 月 30 日以降、オスマン政府は CUP 指導者の逮捕と訴追に着手したが、主要な責任者たちはうまく逃げおおせた。そのなかには、前内務相で大宰相のタラート (Talaat) 、陸軍相エンヴェル (Enver) 、海軍相で最高司令官のジェマル (Cemal) も含まれており、彼らは、欠席裁判で死刑判決を受けた。 CUP のタカ派で権力者のナズィム (Nazim) 博士とバハエッティン・シャキル (Bahaettin akir) 博士は、タラートとトラブゾン州総督であったジェマル・アズミ (Cemal Azmi) と共にベルリンに亡命した。オスマン政府はドイツに対し二度にわたってタラートの引き渡しを要請した。しかし、ドイツの外相ゾルフ (Solf) 博士は、それらの要請が公式の判決を欠いており、また、第一次大戦中タラートがドイツの真の味方であることを証明したという理由で、引き渡しを拒否した。イギリスは、 1919 年 5 月 28 日にマルタで 55 名の CUP メンバーを、さらにムドロスで 12 名を拘禁したが、アンカラのケマル派の対抗政府の圧力と、ケマル主義者に捕らえられたイギリス人人質との交換によって、マルタの被収容者は 1921 年 10 月に釈放された。彼らの多くはアンカラのナショナリスト政府のもとで、閣僚を含む要職についた。 1923 年 3 月 31 日、新生トルコ政府は、アルメニア人とギリシア人に対する大量殺戮の容疑をかけられた、または有罪判決を受けたすべての CUP メンバーに対する大赦を宣言した。

2-2. 領土保全と引き替えにされたジェノサイドの処罰: 1919/20 年のオスマン特別軍事法廷とその失敗

 国内では、裁きが行われなかった。なぜならコンスタンティノープルとアンカラで争う 2 つのトルコ政府は、明らかに正義をアナトリアの領土保全と引き替えにしようとしたからである。コンスタンティノープルを統治するスルタンは、協商国に強要されて、 1918 年 12 月 14 日に移送と虐殺の責任者たちを訴追することを約束し、 1919 年 1 月 5 日から 1921 年 1 月まで、コンスタンティノープルと諸州で特別軍事法廷が開かれた。しかし、逮捕された CUP メンバーの拘置条件は非常に寛大で、彼らは互いに自由に話をし、訪問客を迎えることができ、刑務所から一時的に外出することすら許されていた。彼らの警備員はみな、エンヴェルとタラートが終戦前の 1918 年 10 月に設立した秘密組織「 Karakol Cemiyeti 」(「自警団」)のメンバーだった。この組織は、連合国の占領地域からトルコ人ナショナリストの支配地域への CUP メンバーの逃亡を組織する有力なネットワークであった。

1920 年春に、連合国がアナトリアに対するトルコの領土要求を受け入れないことが明らかになると、 CUP 指導者の訴追に対するトルコの関心は急速に減退した。第 226 〜 230 条項で有罪の CUP メンバーを訴追することを規定したセーヴル条約が締結された翌日、アンカラのケマル派政府は、彼らの勢力範囲におけるすべての特別軍事法廷の解散を命じた。

 国際、国内レベルでの正義の欠如は、アルメニア人の生存者による報復を引き起こした。 5 件の襲撃行為のうち最も注目を集めたのは、ソゴモン・テフリリアン (Soghomon Tehlirian) のケースである。彼は、 1921 年 3 月 15 日にベルリンでタラートを射殺し、 1921 年 6 月 3 日にベルリンの法廷で無罪判決を得た。

2-3. ジェノサイドの最終段階:史実の否認;トルコの公式見解と現在の状況

 アルメニア人と他のキリスト教徒に対して犯された犯罪に対する高い関心が存在していた第一次世界大戦中とその直後の時期には、トルコ政府はアルメニア人とギリシア人の移送を、戦争状況と移送された者たちの疑わしさから生じた不可欠な措置であったとして正当化しようとした。残虐行為と大量虐殺に対する責任は、非トルコ系の民族諸集団、とくにクルド人に転嫁され、犠牲者の数は 30 万人に限定された。

 正当化と矮小化の後に続いたのは、沈黙とトルコ史における史実としてのジェノサイドの強固な否認である。最大の責任者である二人の閣僚タラートとエンヴェルは、国民的英雄へと変貌を遂げた。悪名高い「 隊長 ceteba? ? 」、トパル・オスマン (Topal Osman) のような殺戮部隊指揮官ですら、近年のトルコで高い尊敬を得ている。 2002 年と 2003 年には、トルコの教育相がアルメニア人虐殺のみならず、シリア正教のキリスト教徒とポントスのギリシア人のジェノサイドをも否認する命令を出した。彼は 2003 年に、これらのキリスト教住民のジェノサイドを否認する作文コンクールの開催を命じ、トルコのアルメニア人学校もこれに参加させられた。

 ジェノサイド研究者は、あらゆる形態の否認、すなわち正当化、矮小化、軽視が、犯罪の最終段階とその必要不可欠な一部を成しているという点で、一致している。否認はジェノサイドの生存者とその子孫にとって永続的な苦痛を引き起こし、ジェノサイドが歴史となることを妨げる。

20 世紀前半のジェノサイドに関する限り、否認は特例ではなくごくありふれた現象である。 20 世紀末におけるジェノサイドの処罰の発展、とくに常設の国際刑事裁判所の創設は、そのような否認主義に対する勝利であるが、アルメニア人ジェノサイドのような初期のジェノサイドの否認の問題は依然として残る。

3. アルメニア人ジェノサイドのケース・スタディと比較ジェノサイド研究

3-1. アルメニア人ジェノサイドは、「 20 世紀最初のジェノサイド」であったか? 1904 年の、ナミビアのヘレロ人およびナマ人に対するドイツのジェノサイドとの比較

アルメニア人ジェノサイドはしばしば、「 20 世紀最初のジェノサイド」と称されるが、それに先行して、アフリカで二つのジェノサイド事件が起きている。そのひとつは 1 千万人のコンゴ人のジェノサイドで、彼らは 1885 年から 1908 年までの期間に、レオポルド 2 世の「私有」植民地で殺害され手足を切断された。 6 そしてもうひとつが、 1904 年から 1908 年のドイツの「南西アフリカ」植民地時代に行われた、ナミビアのヘレロ人とナマ人のジェノサイドである。

先住アフリカ人に対する数々の不正事件‐そこにはヘレロ女性に対する多数の性的嫌がらせや強姦も含まれた‐に耐えかねて、 8 万人から成るヘレロ人が指導者マヘレロ (Maherero) に従って叛乱を起こし、 130 人のドイツ人入植者を殺害した。ヘレロ人の蜂起は、直ちにドイツ植民地総督で植民地軍司令官であったアドリアン・フォン・トロータ (Adrian von Trotha) 将軍の指揮下で行われた軍事的報復を受けた。ドイツ帝国議会( Reichstag) がトロータの「野蛮な戦闘方法」に抗議したにもかかわらず、彼はこの「人種間の闘争 (Rassenkampf) 」を容赦なく遂行した。

 報復の結果、女性、子供を含む 6 万人のヘレロ人と 1 万人のナマ人が虐殺されるか、強制収容所で奴隷労働者として死亡した。彼らの土地があった無人の領域は、 1905 年のクリスマスに公布された帝国令によって没収された。ヘレロ人はこのジェノサイドから回復せず、二度と以前の経済的、社会的影響力を取り戻すことはできなかった。

 ヘレロ人とナマ人に対するジェノサイドを、オスマントルコのアルメニア人ジェノサイドと比較した場合、 3 つの共通点が浮かぶ。

(1)犯行者と犠牲者の植民地的関係:

 両方のケースで、政治的に優越した支配者は疑わしいやり方や暴力で領土を「獲得し」、土着の民族を鎮圧した後、権力を共有することなく支配した。状況を改善し、元の地位を回復しようとする被征服者の試みは残忍なやり方で抑圧され、女性や子供を含む共同体全体の絶滅によって報復された。

(2)絶滅システムの類似:

 不平等な戦闘(ヘレロ人の場合)や強制収容所での成人男性の殺害。他の人々の砂漠地帯での飢え、乾き、伝染病への放置や奴隷労働を通じた人口削減。

(3)否認:

 ヘレロ人に対するジェノサイドから1世紀が過ぎても、ドイツ政府は公式の謝罪表明を避けている。唯一 2003 年に 2 名の連邦議会議員が、ドイツの NGO 「危機に瀕した人々のための協会」のアピールに署名した。このアピールは、ドイツ政府に対し過去の不正を謝罪し、生存者の子孫に対するドイツの特別な責任を認めることを求めている。 7 ドイツ政府は、ヘレロ人とナマ人に対するジェノサイドの認知を拒否し続ける主な理由として、補償につながるいかなる声明も回避するという方針を挙げている。一方、「リルアコス・ホセア・クタコ財団 (Riruakos Hosea Kutako Foundation ) 」は、ドイツ連邦共和国と複数のドイツ企業を相手取り、 20 億米ドルの補償を求める訴訟を起こしたが、勝訴の見込みは確かではない。

 アルメニア人に関しては、トルコだけでなくドイツも補償請求を恐れる理由がある。ドイツは、オスマン軍の最高司令部がバグダード鉄道に提供していたアルメニア人の奴隷労働から利益を得ていたからである。しかし、アルメニア民族の代表者や全アルメニア人を傘下に置く組織を欠いていたために、補償に関するアルメニア人の見解を示す明確な声明は出されていない。ソヴィエト共和国以後のアルメニアは、ジェノサイドの認知を、トルコとの二国間の外交関係を樹立するための前提条件とはしないことを表明した。しかし、アルメニアが離散アルメニア人に対してジェノサイドの認知要求を控えるよう働きかけることを拒んだため、両国の外交関係はいまだに実現を見ていない。

 たとえ否認が主として補償請求への恐れから生じていると結論づけられるとしても、ジェノサイドの犠牲者の子孫の不屈の努力は、ジェノサイドの予防に貢献する。

3-2. 封建的な多民族社会から「近代的な」単一民族国家への変容の一部としてのアルメニア人ジェノサイド:アラム語を話すキリスト教徒と小アジアのギリシア人に対する CUP とケマル主義者のジェノサイド罪との比較

CUP の単一民族化政策は、アルメニア人だけでなく、オスマン帝国のすべての非トルコ系諸民族を対象とするものだった。また、ムスリム諸民族を移送し再移住させる計画もあった。単一民族化政策の基本的理念は、追放された諸民族を、現地人口の 5 〜 6 %を超えない形で再移住させるというものであった。計画はまた遊牧諸民族にも向けられ、彼らは生活様式を変え定住するよう強いられた。解放運動は脅威とみなされた。

 しかしながら、オスマン帝国のキリスト教諸民族は、非常に早い時期に確固としたアイデンティティを発展させていて、これを破壊するのは困難に思われた。なかでも小アジア最大の土着のキリスト教集団であったアルメニア人とギリシア人は、同一民族併合主義の野心を抱いているとされ、 CUP にとってとりわけ疑わしい存在となった。いったん CUP がキリスト教徒の市民を内なる敵と見なすようになると、同化や追放では、存在するとされた危険を除去するには不十分だと考えられた。亡命した敵が帰還し報復することが恐れられたからである。それゆえ、 CUP とケマル派の後継者が選定した追放のルートは、ほとんどの場合、近辺の国境や港ではなく遠く離れた準砂漠地帯に向かっていた。

 現在の統計では、オスマン帝国の戦前のギリシア人口‐東トラキアと小アジア(ポントスを含む)に在住‐は、 250 万〜 300 万人で、そのうちおよそ 100 万〜 150 万人が 1912 年〜 1923 年の間に死亡したと推定されている。アメリカ大使のヘンリー・モーゲンソー (Henry Morgenthau) や他の観察者が指摘しているように、ギリシアはアルメニア人より早く、トルコの単一民族化政策の犠牲となった。しかし、彼らの迫害と絶滅はより長期間におよび、その程度には変化があった。ジェノサイドの技術と政策の連続性は、ギリシア人の例を研究するととくに明白となる。より少数のキリスト教民族、アラム語を話す 4 つの異なる宗派 iii のキリスト教徒(シリア人)は、主に 1915 年と 16 年に犠牲となった。生き残ったシリア人は、彼らの民族の 3 分の 1 が殺害され、 3 分の 1 が強制的にイスラム教に改宗させられ、 3 分の 1 が亡命したと算定している。第一次世界大戦前のオスマン帝国におよそ 500 万人のキリスト教徒がいたと考えると、ローザンヌ条約までに 300 万〜 350 万人が殺害されるか死亡した。一連の法律が生存者の帰還を妨げた。トルコ共和国は彼らの市民権を認めず、彼らの財産は没収された。これほど多くの共通の特徴が認められるにも関わらず、ジェノサイド研究者は通常、オスマン史末期の移行期間にオスマン帝国のキリスト教徒に対して行われた犯罪全体を研究しようとせず、アルメニア人ジェノサイドに対象を限定している。

3-3. 第一次世界大戦および第二次世界大戦のジェノサイド:アルメニア人ジェノサイドとショアーの比較;ジェノサイドの処罰と防止に関する国連条約の経験的基盤としてのアルメニア人ジェノサイドとショアー;ラファエル・レムキン (Raphael Lemkin) 、フランツ・ヴェルフェル (Franz Werfel) 、ロバート・ケンプナー (Robert Kempner) ‐アルメニア人ジェノサイドに対する 3 人のヨーロッパユダヤ人の反応

 ロシア系ユダヤ人の叙情詩人オシップ・マンデルシュタム (Ossip Mandelstam) は、 1930 年にアルメニアを「ヘブライの地の妹」と描写した。彼はユダヤ人とアルメニア人の歴史と運命に多くの類似性を見ていた。しかし当時、彼は最も核心的な共通点、すなわち、世界大戦中に人種主義的な体制によって完全な絶滅が企てられたという事実を知らなかった。戦争はジェノサイドに不可欠な煙幕を用意し、さらに、非常事態法の導入と一体となった議会のコントロールの廃止が、ジェノサイドを促進する要因となった。

 第一次世界大戦中に犯された国家犯罪の免罪は、すぐに忘れ去られた。わずかな同時代人がそれを記憶し警告したが、失敗に終わった。それらが懸念を抱くユダヤ人の声であったことは、偶然ではない。ポーランド出身の法学者ラファエル・レムキンは、すでに 1933 年にマドリッドでジェノサイドに対する国際協定を立ち上げようとしたが、彼の試みは、第二次世界大戦とさらなるジェノサイドが起きた後になってはじめて成功した。国連協定の「父」は、この重要な協定をアルメニア人とユダヤ人ジェノサイドの経験的基盤の上に起草した。ユダヤ系オーストリア人の作家フランツ・ヴェルフェルは、ヨーロッパユダヤ人をとり巻く脅威が増していく状況のなかで、アルメニア人ジェノサイドのエピソードを叙述した小説『モーセ山の 40 日』を書いた。ドイツ人とトルコ人の修正主義者は、作家が明らかにアルメニア人とユダヤ人の迫害を重ね合わせていることに激怒した。彼の小説は、アメリカで即座にベストセラーとなったものの、ヨーロッパでは、 1933 年 11 月下旬の出版からわずか 2 ヶ月後に発禁処分となった。世界はレムキンやヴェルフェルの声に耳を傾けようとせず、ヒトラーと取り引きした。彼はポーランド侵攻直前の 1939 年 8 月 22 日の演説で、ドイツ軍司令官たちに対して次のように訴えた。

 「( ... )我々の強さは我々の迅速さと残忍さにある。チンギス・ハンは、何百万もの女子供を、意図的にためらうことなく死に追いやった。(しかし)歴史はただ彼を偉大な建国者と見るだけだ。弱腰の西欧文明諸国が私について言っていることなど、意に介す必要があろうか。私は命令を下したのであり、一言でも批判を口にするものは誰でも射殺する。なぜなら、この戦争で達成すべき目標は、特定のラインに到達することではなく敵の肉体的抹殺だからだ。それゆえ私は目下東方においてのみ、 SS (ナチ親衛隊)の髑髏部隊 (Totenkopfverbande der SS) を投入し、容赦なく無慈悲にポーランドの血統や言語をもつ多くの女子供を殺すよう命じた。それによってのみ、我々は必要な生存圏を獲得することができる。 結局のところ、今日誰がアルメニア人の虐殺について口にするだろうか (...) ? iv

 ヒトラーとその仲間の多くは、ムスタファ・ケマル (Mustafa Kemal) に魅了されていた。ヒトラーの見方によれば、彼は連合国の領土分割計画と内なる敵の危険からトルコを救ったのである。他方、彼にとってアルメニア人は、弱さの象徴だった。民族の弱さは許されないものであり、アルメニア人は彼らにふさわしい破滅を辿ったのである。ヒトラーと多くのドイツ人の考えによれば、単一民族化の理念は、「弱者」で同時に危険で劣等でもある諸集団(「諸人種」)の迫害、移送、そして絶滅さえも正当化するものだった。

 ドイツ人の法律家ロバート・ケンプナーは、 1921 年にベルリンで行われたタラート・パシャの裁判を熱心に見守っていた。当時彼は法科の大学院生だった。ケンプナーはアメリカに亡命し、ニュルンベルク裁判でアメリカの主席検事を務めた。彼は、 1980 年に当時を回想して書いている。「トルコ政府が命じた 140 万人のキリスト教徒アルメニア人の殺害は、 20 世紀の最初のジェノサイド計画だった。少なくとも 140 万人のキリスト教徒アルメニア人のホロコーストから、 600 万人のユダヤ人のホロコーストへの行程に、わずか 20 年しか要しなかった。 (... )」

 トルコとドイツのナショナリズムには、類型学的な類似性がある。両国とも、民主主義が漸進的に発展し、法による統治のための安全装置が確立していた英仏と比較して、後発国であった。遅れて来た国民国家は、マイノリティに敵対するある種の反動的で選民主義的なナショナリズムに傾く傾向があるように見える。そのような国家は、ジェノサイド的要素をもつイデオロギーに急速に染まる恐れがある。

アルメニア人ジェノサイドとショアーの差異を示す諸特徴:

 (1)比較ジェノサイドの研究者は、ユダヤ人ジェノサイドとアルメニア人ジェノサイドの差異を示す主要な特徴のひとつとして、ナチの人種主義思想と人種的「純粋さ」の理念を指摘してきた。ナチが強制収容所における売春宿を例外として、ユダヤ人との性的混交(「性的汚辱」)を法律で禁じていたのに対し、キリスト教徒の女性に対する性的虐待と拷問は、青年トルコ人一派の動機の重要な構成要素であった。研究者はまた、何千人ものアルメニア人女性と子供が拉致され、イスラム化され、ムスリムの家族に統合されたという事実も、 CUP がいかなる人種差別思想も追求しておらず、少なくとも、アルメニア人女性と子供の強制的同質化を妨げる状況にはなかったことの証拠として指摘する。しかし、より精密に見れば、どちらの処遇も、犠牲者への同じ軽蔑と恐れから引き起こされているように見える。トルコのケースでは、アルメニア民族はその女性と同一視された。中近東のキリスト教徒とイスラム教徒に等しく浸透した集団的名誉ないし不名誉という考え方においては、女性と子供の冒涜、絶滅、さらにまた所有は、民族集団の冒涜と絶滅に次ぐ重大な意味をもっていた。そうした文化的コンテクストや価値体系を考慮しない比較は、誤った結論に導く恐れがある。

 (2)法的な処罰と責任の否認:ジェノサイドは、 1946 年にはじめて国際法廷で裁かれたが、その全体が審理の対象となったわけではなく、ニュルンベルク裁判において、ショアーは常に周縁的問題だった。 8 後年の裁判、とくにイスラエルにおけるアイヒマン裁判 (1961) とフランクフルト(マイン)でのアウシュヴィッツ裁判 (1963) は、より大きな正義と公衆の意識の高まりをもたらした。後継国家における否認は、ユダヤ人の場合については一度も問題とならず、戦後ドイツは、ナチ・ドイツの罪と生存者および犠牲者の子孫に対する自己の責任を認めた。しかし、このような成果が西側戦勝国、とくにアメリカの強い要請なしに達成され得たかは非常に疑わしい。ユダヤ人ジェノサイドの否認は、ドイツでは法で禁じられている。

 (3)アルメニア人は通常、彼らのジェノサイドの植民地的な側面と、彼らの民族がマイノリティとしてではなく彼らの国の先住民族として絶滅されたことを強調する。そうした状況を表すために「 armenocide 」という言葉が提起されている。小アジアのギリシア人は彼らのジェノサイドである「 xerisomos (絶滅)」に、同じ観点を求めている。

3-4. 20 世紀後半の「全体的ジェノサイド」とアルメニア人ジェノサイドの比較。 R. メルソンの「全体的ジェノサイド」の定義とアルメニア、ショアー、カンボジア、ルワンダの 4 つのケース・スタディ。

 国連は、全体的ジェノサイドと部分的ジェノサイドを区別している。ロバート・ R ・メルソン (Robert F. Melson) 教授は、この分類に基づき、対内的および対外的ジェノサイドに部分的、全体的ジェノサイドという要素を加えて、 4 つのカテゴリーを創出した。彼は、対内的で全体的ジェノサイドとして、オスマン帝国のアルメニア人、ヨーロッパユダヤ人、カンボジアおよびルワンダのジェノサイドを挙げている。

 アルメニア人ジェノサイドをカンボジア (1975-79) 及びルワンダ (1994) のケースと比較した場合の共通点は、まだ十分に研究されていない。少なくとも 167 万人の犠牲者を出したカンボジアのケースは、あらゆるジェノサイドの犯行者が、政治的、宗教的、経済的、そして社会的な種々の動機につき動かされていることを示している。カンボジアの虐殺では、カンボジア社会の富裕層や教養層と同じく、仏教の僧侶や尼僧、外国人(中国人やタイ人)が犠牲となった。この犯罪の最大の責任者であるポル・ポトは、 1997 年 7 月 23 日になってようやく逮捕された。それもこの巨大なジェノサイド罪ではなく、自分の仲間を殺害した罪と、反逆罪のゆえであった。これは「わが子をむさぼり食う革命」のケースで、 CUP のメンバー間で起きた殺害行為に類似しており、元 CUP メンバー、ムスタファ・ケマルの政権が 1926 年に行った CUP メンバーの殺害には、いっそう類似している。

1994 年のルワンダ虐殺の特異性は、およそ 60 万人のフツ族と少なくとも 20 万人の多数派フツ族の反対派の殺害に、女性と子供が積極的に関与したことである。女性は生来平和的で、暴力のプロパガンダに傾斜することはないという通念は、ルワンダ虐殺によって偽りであることが示された。しかし、ジェノサイドへの女性の積極的関与は、すでにアルメニア人ジェノサイドでも起きていた。一方、ルワンダのジェノサイドは、アルメニア人ジェノサイドやショアーという初期のケースとは異なり、宗教的側面はもたない。

4. 学ぶべき教訓:結論

 戦争と変容の時期は、ジェノサイドを計画する者に豊富な機会を提供する。それゆえ、戦争および暴力の予防と、移行期にある諸国家の民主主義的な諸機構や市民社会に対する支援は、ジェノサイドの防止につながる。ジェノサイドを防止するための主要な手段は正義、すなわちジェノサイドの処罰と教育である。 1998 年に常設の国際刑事裁判所の設立条約が締結されて以来、ジェノサイドの有効な処罰は現実のものとなった。また、生存者とその子孫が、ジェノサイドの事実の認知と補償を求めることは、正義を確立するための別の方法である。しかし、それは時間を要し、他の多くの問題と取り組まねばならない生存者の離散共同体にとって、負担の大きい方法である。

 ジェノサイド教育は、とりわけ、過去にジェノサイドが発生した社会にとって不可欠である。トルコ人研究者と反体制派の人々が正しく述べているように、否認、あるいはジェノサイドの正当化すら、社会における暴力一般の容認につながる。ドイツのケースから見てとれるように、ナミビアにおける植民地ジェノサイドの認知は、「事後」百年以上が過ぎてもなお困難である。今日における否認され隠蔽されたジェノサイドは‐ヨーロッパ諸国の植民地の過去であれ、オスマン トルコの 植民地の過去であれ‐、植民地時代の過去におけるジェノサイドである。

 アルメニア人とヨーロッパユダヤ人のジェノサイドから学んだように、宗教は近代のジェノサイドの主要な動機ではない。アルメニア人ジェノサイドを立案した青年トルコ人やナチのイデオローグは、非宗教的だった。しかし、彼らは多数派の住民の間に広範に広まった古い宗教的バイアスを受容し、利用した。比較紛争研究は、あらゆる宗教がマイノリティに対して不当に利用される可能性があることを示している。

(翻訳 福永美和子)

 

i タンズィマート とは、「布告」、「命令」の意味で、意訳すると「改革」時代。

ii International Affirmation of the Armenian Genocide.-http://www.armenian-genocide.org/ Affirmation. 160/current_category.7/affirmation_detail.html より引用。

iii 二つの主要な教 会は、シリア正教会(「ネストリウス派」)と古代東方教会(「アッシリア教会」)である 。

iv Documents on Britisch Foreign Policy 1919-1939. Third Series, Volume 7.(London 1954), p.258. より引用。

1 ディヤルバクル州総督( 1915 年 3 月〜 1916 年 3 月)、 CUP 高級幹部で医師であったメフメト・レシド博士 (Mehmet Re?id, 1873-1919) の言葉。 1915 年の CUP 事務総長、ミトハト・シュクリュ (Mithat ?ukru, Bleda) との会話のなかでの発言。 Kieser, Hans-Lukas: Dr. Mehmet Reshid (1873-1919): A Political Doctor. In: Kieser, Hans-Lukas; Schaller, Dominick(Hg.) , Der Volkermord an den Armeniern und die Shoah, Zurich 2002, S. 262. より引用。

2 1909 年 7 月のオスマン帝国徴兵法の改正による。ムスリムならびに非ムスリム(ユダヤ教徒とキリスト教徒)は、唯一極めて高額の免除税 (bedel-i nakdi) を支払うことによって、国民兵役を免れることができたが、それができたのは富裕者だけだった。キリスト教徒徴集兵の最初の招集は、 1909 年 10 月に実施された。 Zurcher, Eric Jan: Ottoman Labour Battalions in World War I. In: Ebenda, S.190. 参照。

3 アルメニア人弁護士の証言に よって確認されている。 Dadrian, Vahakn N.: Documents, p.353-354. より引用。

4 フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング (Frankfurter Allgemeine Zeitung) のエルサレム特派員ハンネス・シュタイン( Hannes Stein )の編集長宛て書簡より引用。書簡は、 1998 年 8 月 4 日付の同紙に掲載された。

5 A Pictorial Record of Routes and Centres of Annihilation of Armenian Deportees in 1915 within the boundaries of Syria . Ed. Robert Jebejian, Aleppo , 1994, p.65.

6 Hochschild, Adam: King Leopold's Ghost: a Story of greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa. New York : Houghton Mifflin Co., 1998. を参照。

7 Delius, Ulrich: 100 Jahre Volkermord an Herero und Nama, Gottingen: Gesellschaft fur bedrohte Volker, Januar 2004(Menschenrechtsreport N.32 der Gesellschaft fur bedrohte Volker)

8 256 ページにおよぶニュルンベルク判決のうち、ヨーロッパユダヤ人の絶滅に触れているのはわずか 3 ページにすぎない。 Kieser, Hans-Lukas; Schaller, Dominick: Volkermord im historischen Raum 1895-1945. In: Der Volkermord an den Armeniern, a. a. O., S.43.

 

■報告C:「ナチ・ジェノサイド研究の最前線」ハイム氏

 

Susanne Heim(マックス・プランク研究所)

 

  長年にわたり、ヨーロッパユダヤ人の殺害は不合理や文明の断絶(Zivilisationsbruch)と同義であると考えられてきた。工場のように体系的に組織されていながら、狂信的な人種妄想の表われでもあったためである。アイヒマン裁判でのある生存者の言葉を借りるならば、アウシュヴィッツは「人類文明の従来の規則や慣習が適用されない世界つまり『別の惑星』」であった 。通常世界と絶滅世界のあいだのこの断絶こそが、収容所からの解放の後、死にいたるまで生存者の多くを苦しめつづける悪夢の原因であるとL.ランガー(Lawrence Langer) は論証している。生存者の多くは迫害によって、以前の自分がどうであったかを自分自身でも分からなくなるほどに変わってしまった。身体的に変わったというだけではない。永続的な死の恐怖の中で生き延びようとするあまり、他者−たとえその「他者」が親友や家族であっても−の苦しみには無関心であることを強いられ、自身の規範にも周囲の価値観にも反する行動様式をとらざるをえなかったことも少なくなかったのである。長年にわたって生存者を苦しめ、その体験を伝達不能なものとし、彼らが世間と隔絶してしまったことの理由とされてきたのはまさにこの矛盾であった。いかに体系的に組織され、合理的に実行されたにせよ、ホロコーストは被害者にとっては恣意的で予測不能な体験であった。今日でも、ホロコーストを他の諸々のジェノサイドと分かつ特異な点は実利的合理性の完全な欠落にあると考えられている。H. アーレント(Hannah Arendt )がかつて述べたように、ホロコーストは多大な犠牲者を出したために特異なのではない。殺人者の側が実利性や利害を一切考えていないがために特異なのである。

  近年のジェノサイド研究は、ホロコーストは他の大量殺戮と比較可能であるが特異でもあるという点から出発する。特異である点を挙げるならば、他の大量殺戮犯罪の犠牲者とは異なり、ユダヤ人は下等人間(Untermenschen)であり、アーリア人を堕落と退化から救うためにはユダヤ人を完全に抹殺しなくてはならないとされたことである 。また、ヨーロッパユダヤ人の殺害が「ヨーロッパで科学的・産業的に最も進んだ国の一つ」によって行なわれたという点も挙げられる 。さらに、ホロコーストを歴史上の他の諸々の大量殺害と分かつのはその近代的・官僚主義的な組織性である。つまり、被害者集団を登録しそれとわかるように明示すること、巧妙なプロパガンダ、ゲットーや収容所へのユダヤ人の集中、「高度に専門化された移動殺人部隊」の利用、絶滅収容所とガス室、ドイツ人社会のあらゆる職種の動員およびユダヤ人絶滅政策への他国の取りこみである。

  私の以下の報告の焦点となるのは、ホロコーストはそうした殺害方法のみならず、加害者の追求する長期目標および彼らの描く社会変革構想という点からみても近代的「犯罪」であったという考察である。したがって、単に加害者を告発し、犯罪を生じさせた力学を再現することにとどまらず、加害者社会(Tatergesellschaft)の構造を分析することこそが重要になる 。以下に、ホロコーストと関わる社会的変容過程ならびに「加害者社会」の構成という二つのテーマについて詳細に考察し、このシンポジウムで取り上げられる三つの大量殺害の類似点と相違点について議論するための一助としたい。
  その際、次の三つの局面に注目することになる。

1)ドイツ支配下の新ヨーロッパ構想
2)この構想の科学的基盤
3)ドイツ人社会の全領域がユダヤ人迫害および殺害に同意したことの物質的基盤

・人口過剰、再定住、選別
  ヨーロッパユダヤ人殺害の決定が下されたのは1941年の何月であったのか、それとも[ヒトラーによって]あるひとつの決定が下されたわけではなく、長期にわたる試行錯誤の中で次第に自発的急進化が進んでしまったのかについて、歴史家は今日にいたるまで論争を続けている。しかし、ユダヤ人殺害への方向性が東方での侵略戦争によって定められたことには疑いの余地がない。「大規模な大量殺害をともなう東方への帝国主義的[膨張]衝動は軍事作戦であると同時に人種戦争であり、そのジェノサイド的な論理は何よりもソ連への攻撃を準備したイデオロギーに内在するものであった。アメリカ参戦によって戦争が大戦へと拡大したときには、ヨーロッパの全ユダヤ人の抹殺は主要目的と化していた。そのため戦争はユダヤ人に対する戦争ともなり、それは1939年1月にすでにヒトラーによって予告されていた通りでもあった。」 まずポーランド、次いでソ連に侵攻したことにより、ドイツ支配下の地域に住むユダヤ人の数は飛躍的に増加した。約50万人のドイツユダヤ人は、多くが自分はユダヤ人ではなくドイツ人であると考えていた。ところが今や問題となるにいたったのは何百万人もの「東方ユダヤ人(Ostjuden)」である。東方ユダヤ人は、第一次世界大戦中にドイツ人兵士が貧困、低開発、未開そのものとみなしていた存在であった。軍事占領の二〜三週間後には早くもドイツ人はポーランドでいわゆる「新秩序」の実験を開始したが、ポーランドを手始めとして東欧全域に新しい経済的社会的秩序を押しつけることが計画されていた。それは「遅れた」農業国と考えられていたこの地域を「大ヨーロッパ」、つまりドイツ人の「生存圏」の生産的一部へと変えるためであった。


  ドイツのみならず西欧諸国、アメリカの経済計画担当者の目にも、ポーランドおよび東欧の大多数の国々は開発が遅れ、経済が効率的に組織化されておらず、資本不足であると映った。とりわけ、農業によって生計を立てている人口があまりに多すぎるのが問題であった。全人口の三分の一、地域によってはそれ以上が過剰と考えられ、近代的な耕作方法を導入する必要があった。したがって、経済の大部分を占めている農業部門では、意味をなす程度にまで資本が蓄積されることもなければ、産業生産物を購入するために必要な購買力を農民がもつこともなかった。経済学者の試算によれば、南東欧も同じく過剰人口を抱えており、ドイツの産業経済の利益を考えるならば、1200〜1500万人の農業労働者を「移動」させる必要があった。家族を含めると5000万人もの人々が排除されなければならないということである。これらの「未利用の労働力」はインフラ整備、道路建設、河川整備、湿地干拓に利用できると考えられた。強制労働のために彼らをドイツに輸送することも可能であるかもしれなかった。

  外部からの強制的介入がなければ貧困と人口過剰は悪化し、労働効率は低下の一途をたどるものと思われた。このような経済的思惑に加え、「住民の貧困化の進行」は当該国の政治的安定性を脅かすとされた。このような見解に立っていたという点では、ドイツの東欧専門家も西欧の東欧専門家も同じであったが、ドイツの科学者は過剰人口に対してある特殊な「処方」を案出した。彼らは「非ユダヤ化」をポーランドの経済的社会的構造を安定化させるための第一歩と考えたのである。占領下ポーランドの経済相は将来の経済政策構想を次のように略述している。「経済活動の成長の前提条件」は「経済構造全体の根本的な変化」であり、それはまず何よりも「ユダヤ部門の大幅な合理化」である。「ユダヤ部門を縮小することにより、ポーランド部門が遅れを取り戻す機会が生じるであろう。[・・・]無論、この商業移住は無秩序、無規律に行われることがないよう適切に組織されなければならない。」小規模事業や零細事業からなり、地域的に限定されたユダヤ人の商業コミュニティは、経済にとって障害となると経済相は考えていた。それに対して、彼の構想する「商業移住」は東方に市場を開拓することを目的とするものであった。人工的に新たに作り出されるポーランドの「中規模事業」は監視、統制がしやすいものとなるはずであった。これらの計画の前提条件は大規模な再定住であり、ヒムラーの言葉を借りるならば「民族集団全体の移植」であった。このような民族的思考は「価値」に応じて階層化された様々な集団へと住民を分類することと分かちがたく結びついていた。そしてこのヒエラルキーの最下層に位置したのがユダヤ人であった。

  大戦勃発から五週間後の1939年10月6日、ヒトラーはヨーロッパにおける「民族新秩序の創出」を宣言した。ヒトラーはこの目的を「諸民族の再定住」によって達成しようと目論んだ。期待されていたのは「明確な境界線の現出」であった。ヒトラーは同時に、「ユダヤ人問題を明らかにし、解決するための努力[が払われることになる]」とも宣言した。翌日、ヒトラーは諸民族の暴力的放逐を組織する権限をヒムラーに与え、ヒムラーはただちに「ドイツ民族性強化のため帝国全権委員」として、「ドイツ民族性強化全権部」を設立した。この部局は、二〜三ヶ月のうちに、銀行、有限会社、計画担当スタッフ等のネットワークに支えられて政策決定にも影響力をもつ巨大かつ強大な機関となった。そこに属するすべての組織は既存の諸機関に対して指令を出す権限を与えられた。これらの組織ではSS隊員、ソーシャルワーカー、地方共同体の連絡スタッフ、建築家、監査役、行政官、農学者、帳簿係などが働いていたが、それらの様々な技術と活動がただ一つの目的に供されていた。ポーランドの帝国編入地域における再定住政策の組織化である。財産を没収され、住居から追われる者がいれば、代わりに連れてこられる者もいた。[ドイツ民族性強化]全権部は村や町全体を組織しなおし、「地方の様相を完全に変化させる」べく取り組んだ。

  ドイツ人の再定住の専門家は、人種政策、人口政策、社会構造政策を結びつけ、「東方におけるドイツ再建」のための総合的かつ統一的な構想を作り上げた。最も単純かつ安上がりな「解決」は人口政策であり、それは入念に計画されたものであったが、残虐なものでもあった。人口政策は、ナチ社会の人種主義的規範に立脚しつつも、そうした人種主義的規範を社会工学のための実用的手段へと発展させていった。全住民集団の再定住によって、巨大なプロジェクトを実現するための自由な行動の余地が作り出され、資金調達の必要がなくなり、社会的経済的組織化とインフラの効率性という点で模範的な社会を建設するための道が多くの犠牲の上に力ずくで拓かれることとなった。そのため、肯定的な意味でも否定的な意味でも[ドイツ民族性強化]全権部の職務の重点は人口政策に置かれた。被害者は差別され、「排除」された。恩恵を受ける側の者は優遇され、促進された。ポーランド西部はできうるかぎり早急に「ドイツ化」されるべきであり、その経済システムはドイツ帝国の需要にあわせて変えられるべきであるとされた。何十年にもわたって東欧諸国で少数民族として生きてきたドイツ人が、占領下ポーランドに移住させられることになった。

  この目的のために、[ドイツ民族性強化]全権部の計画担当者はユダヤ人住民と一部のポーランド人住民を当該地域から追放し、東方に移送することを提案した。移送される者たちの住居、農場、店、工場は閉鎖、解体されるか、さもなければバルト諸国やソ連占領下のポーランド東部、後にはルーマニアから「送還」されてくる民族ドイツ人に配分された。

  ポーランド人およびユダヤ人の追放は、民族ドイツ人の移住とひとつの統一体を形成しており、制度上もハインリヒ・ヒムラーという同一人物の手に委ねられた。ラインハルト・ハイドリヒもまたポーランド人およびユダヤ人の追放と民族ドイツ人の移住を管轄していた。ドイツ人の再定住は常に経済的合理化と結びつけられた。ドイツ人一家族のために、しばしば二〜三、時として五家族もの少数民族、ナチ用語でいうならば「異民族」(“Fremdvolkische”)が移動、送還されることもあった。様々な参考数値等に基づき、各地の計画担当者は最適な「人口構造」を計算した。土地の質に応じて1平方キロメートルあたりの農業従事者数が規定されると、そこから最適な「非農業労働者」数が割りだされた。同様の計算が個々の職業集団について行われた後、条件に応じてポーランド人のいくつかの農場や工房が合併され、続いてドイツ人の農業主や職人に配分された。こうしてパン屋であれ、靴屋であれ、農場主であれ、ドイツ人は「健康な」事業を与えられることになるのである。結果として、強制的に移住させられる者の数は新たに定住することになるドイツ人の数よりも常に目に見えて多いということになった。

  この[再]定住措置においては、ポーランド人およびユダヤ人が選択、分類されたのみならず、民族ドイツ人も同様に選択され、分類された。民族ドイツ人は、出身地、社会階層、資産状況、「政治的態度」、健康状態などに応じて様々なカテゴリーに分類され、再分配された。そのような分類を行うための基準は科学的根拠に基づいて確立すべきであるとされた。

  1942年夏に帝国食料農業省次官H. バッケ(Herbert Backe)はカイザー・ヴィルヘルム財団(KWS)に人種生物学と[再]定住問題のための研究所を設立するよう勧告した。当時、バッケは科学振興のための機関として国際的にも高い評価を受けていたKWSの副総裁であった。食料農業省において影響力ある地位にあったため、バッケは広義の農業研究に携わるKWSのあらゆる研究所の財政にとって重要な人物であった。新たに設立される研究所では、人種生物学的な観点から「東部領」の将来の入植者が選ばれることになっていた。「とくに重要な問題は、個々の種をある地域に閉鎖的に定住させるのか、混住させて定住させるのかという問題であろう。すべては特定の気候条件、土壌条件に対する定住者の生物的適性によるのである。」したがって、この問題に関する科学的資料を扱うのは食料農業省でもSS帝国指導者でもない。それはこれから設立される研究所が決めることである、とバッケのあるメモには記されている。

  東方での[再]定住をめぐる科学的研究は1942年夏に始まったわけではない。すでに様々な分野の専門家が占領下の東部領への定住者の選択に関与していた。とはいえバッケによって提唱された基準に従っていたわけではなかった。バッケの実現されなかった提案は、獲得した東方でナチの政策が直面した新たな課題が、いかに科学的に取り扱われるようになっていくのかを示す一例である。

・科学の役割
  [再]定住政策は生物学的モデルを社会再編に適用したものであった。この政策に如実に表われているように、ナチの政策は科学的な立場からの政策提言に相当程度に依拠していた。各地域の計画担当者、社会学者、人口学者などが大量に協力していたことを考えればこのことが社会科学にあてはまるのは明らかであるが、自然科学、とくに生物学についても同様のことがいえる。19世紀末に人文科学において優生学のパラダイムが台頭するにつれ、次第に生物学が社会現象を解釈する際の主要概念となっていった。優生学の発展にともない、人種学、人口学の意味も極めて大きくなった。「市民階層のあいだで当時広く感じとられていた危機的状況に関する推測―全般的な社会的文化的衰退は貧困、非行、反社会性、売春、アルコール依存などに特徴づけられる「社会問題」の影響によるものである―は、優生学=科学的思考様式に通ずるものであった。しかしそうした危機的状況は[…]優生学的アプローチ、つまり優生学独特の解釈と現実の再構成の仕方によって強められた面があったばかりか、優生学によってはじめて引き起こされたものでさえあったともいえた。」 優生学の主要科学への台頭によってこうした社会現象が遺伝的なものであると考えられるようになり、そのことが逆にあらゆる種類の「異常性」についてその遺伝的根拠を調査する差し迫った必要性があるかのように思わせることになったのである。

  優生学研究は「逸脱のない」社会というユートピアに適合させられた。このことにより「病的」もしくは「劣等」とみなされるあらゆる遺伝的要素を再生産から排除すべく科学的に定義し、精密に記述することが求められることになった。「民族体(Volkskorper)という生物的集合体は優生学的な思考においては至上の規範的権威であり、そこでは個人の価値が遺伝的要素から予測される資質に照らして定められる。優生学の論理によれば遺伝的には万人が平等とはいえないことになるのである。」

  優生学と人種衛生学の興隆はナチに特殊な現象でもドイツに限られた現象でもなかった。同じような展開は他の諸国にも同様にみられたことが知られている。しかしナチに特徴的であったのは、科学と実践が密接に結びついていたことであり、優生学や人種学の科学的提言がすぐさま政策決定に移されたことであった。KWSの科学者もその専門知識をナチの人種政策のために提供し、新たに設立されたあまたの理事会や委員会で政策顧問として活躍した。人類学、遺伝学、優生学関連のカイザー・ウィルヘルム研究所の指導的科学者たちは「ユダヤ人問題」を検討したり、専門家会議で「ユダヤ人問題の全体解決」について協議したりした。中には、人種証明書や家系証明書を作成し、人間を「完全ユダヤ人」「二分の一ユダヤ人」「四分の一ユダヤ人」に分類して差別を進めていくための基礎を準備した者もいた。また「東方諸国の人種的生物的調査」を行った者もいた。 ほぼすべての学問分野が占領下の東欧の従属と長期的変革に関与した。

  科学者は、すでに占領下に置かれた、もしくは間もなく占領下に入る国々の人口比率、社会的経済的状況、食料供給、国内資源に関するデータを提供した。たとえば統計学者は、ユダヤ人とシンティ・ロマを国勢調査でそれぞれ独立した項目として登録したり、全ヨーロッパユダヤ人をマダガスカルに移送する可能性を算定するために三種類の異なる証明書を用いたりした。 経済学者は供出割り当てを決定した。つまり占領地域の住民を飢えさせることを決定したということである。 栄養生理学者はレニングラード包囲を大都市の住民を飢えさせるためにはどれだけの日数がかかるかという実験ととらえていた。 社会学者は「民族境界の適正化」や「小規模市場都市の非ユダヤ化」などの提案を行った。 内科医はゲットーは疫病の危険な温床であるとして、ゲットーを厳格に分離するか、望むらくは移送によってゲットーを解体すべきであると主張した。

  ナチの統制計画の策定に政策顧問として関与したとして問題になる科学者は、一般にきわめて若い世代の知的エリートであった。この世代は「ヴェルサイユの恥辱」や世界恐慌時の失業の恐怖を経験した後、ナチ国家の勢力拡大によって思わぬ機会をえたのである。1933年以降に行われたユダヤ系および社会主義者の科学者の追放、(地域計画、遺伝衛生学、軍事技術、代用品生産などの分野における)国家機能の拡張、さらには1938年以降の領土拡張は、科学者が取り組むべき新たな課題を生みだした。戦争は科学の使命に関する科学者の認識を変え、科学は倫理的制約から解放された。 ドイツの研究エリートは正義や倫理は科学とはなじまず、新しい政治条件の下では無視しうるものであると考えるようになった。

  ある地域の住民も基本構造をも顧慮する必要がない、というとくに占領下の東欧諸国で広がっていた確信は新機軸、計画のための計画という雰囲気を強めた。占領下ポーランドで働いていたあるドイツ人経済学者の言葉を借りれば、「東方で経済計画担当者は完全に新しい状況に直面している。既知の経済要因が定まっている上で、個々の産業工場をどこに設立するか、輸送のためのインフラをどのように作るのが最もよいかということを考えるのではない。経済用語で言うならば、ここにあるのはまさにタブラ・ラサ(白紙)状態なのである。」

  政治信条のためであれ、出世願望のためであれ、科学への貢献のためであれ、科学者はその技能をナチ体制のために役立てた。しかし、科学とナチ支配の関係はあくまでも相互的なものであった。したがって、「科学の悪用」、犯罪的政策のための科学の動員、という言い方には語弊がある。科学者は自らのプロジェクトを通じてナチに協力し、協力に対して報酬を受けた。つまり、きわめて良好な研究環境に恵まれ、専門とする研究を大戦中にも続けられるようになり、金銭的報酬をもえたのである。このことは政治と関係の深い社会科学者のみならず、科学的客観性の重視をもって自認する自然科学者にもあてはまる。

  ドイツ軍がソ連に侵攻した後、ドイツの科学者はソ連の有名な研究所を訪れ、その多くをわがものとした。このような搾取はたとえば植物品種改良のようにソ連の研究者が主導的地位にあった分野の科学者にとってとりわけ魅力的であった。中でもドイツの植物学者および生物学者は先を争うように世界的に有名なソ連の植物品種改良工場を訪れた。戦時下で貴重な資源が破壊されてしまうことを恐れたためでもあり、スターリン下のソ連科学がいわゆる「ブルジョア」遺伝学を敵視しており、遺伝学研究所を破壊したり、放棄したりすることが考えられたためでもあった。ドイツの科学者にとってこれは、ソ連の研究資源を奪うことによりソ連の進んだ遺伝学を継承するまたとない機会であった。ドイツの科学者はソ連の有名な植物コレクションを争って求め、ソ連の研究所に殺到しはじめた。

  ソ連の研究所の接収をコーディネートし、占領地域での研究を組織し、ドイツ人占領者に進んで協力しようとするロシア人科学者を引き入れたのは東方研究センター(”Zentrale fur Ostforschung“)という特別の機関であった。東部占領地域省の管轄下にあった東方研究センターはカイザー・ウィルヘルム研究所から複数の科学者を雇用した。これによって彼らは単にドイツの一研究所の部門長という従属的な立場から占領下の東部領の科学部長へと格上げになったわけである。「東方研究センター」は国防軍が東方から退却するときにも科学コレクションや研究設備の撤去を組織した。ドイツ人は持ち去ることのできないものをすべて破壊しつくした。悪名高い「焦土」作戦である。種子コレクションの場合、これを実行すれば残された住民が飢えに苦しむことになることを十分に認識していながらこの焦土作戦は遂行された。

  ヨーロッパユダヤ人の絶滅に関する研究の中でR. ヒルバーグ(Raul Hilberg)はあらゆるレベルで自発的な開始を促進するような雰囲気があり、それが絶滅プロセスの効率性を高めたと述べている。 この指摘はヒルバーグが扱った官僚機構のみならず、科学についてもあてはまる。占領地での出世のチャンス、研究所を荒らしまわって手に入れた研究材料が侵略政策への熱心な関与の物質的基盤となり、政治指導部と科学者コミュニティのあいだの利益同盟を生み出した。忠誠を誓うことによって恩恵を被ることができるというこの種の関係はとくに科学においてみられたが、科学だけに限定された問題ではない。

  ドイツは全ての植民地を奪われ、膨大な人口に対して十分な資源をもたない貧しい国であるという考えはあらゆる層のドイツ人に広がっており、食料と資源を供給するためという名目の下に東方での戦争を正当化することになった。 加えて、ドイツ人のあいだには幅広い反セム主義的なコンセンサスが存在したため、「東方ユダヤ人」は「下等人間」であるとのレッテル貼りがなされたのみならず、ナチの政権掌握につづく数年のうちにユダヤ人を社会から排除する動きが助長されることにもなった。
今回の講演の中で私は、当初は躊躇し、疑念を抱いた非ユダヤ系ドイツ人が、熱狂的ではなかったにせよ最終的にはナチの反ユダヤ人政策に加担するにいたった個々の段階を詳細に論じることはできない。

  しかしそれに関連して私が最も関心をもっているのはユダヤ人から没収した財産が果たした役割である。科学者にとっての研究資源の強奪と同様、ドイツ社会の大部分ではユダヤ人財産がナチの政策に対するコンセンサスと忠誠心を喚起する意味をもった。レベルはまったく異なるが、非ユダヤ系ドイツ人はユダヤ人から収奪することで利益を受けたのである。

  ドイツ人は亡命するユダヤ人から家具、宝石、その他の貴重品を市場価値よりはるかに安く買い、ユダヤ人が狭苦しい「ユダヤ人住居」での共同生活を法的に強制されるようになった後にはそのアパートを好条件で入手し、商店や工房を奇妙なほど安く買った。こうした個人的な利益享受は「再分配」のひとつの形態であり、大衆がナチ政府を承認する基盤となっていた。このようにしてナチ体制は元手もかけずに「一般大衆」の期待に応ええたのである。個人財産の所有権が移ったことに加え、ユダヤ人の病院が軍の病院に、老人ホームが「アーリア人」の子供のための施設に指定されるなどといった措置もとられたが、それがなければ、非ユダヤ人に対する社会保障が大戦中にあれほど高いレベルで維持されることは不可能だったであろう。

「[ユダヤ人財産を]公共の場で販売することの目的は『住民のできるだけ多くの者に商品を適正な値段でばらまくこと』にあった。」 資料状況にめぐまれたハンブルクの事例研究によれば、「アーリア化」の恩恵を受けたのはとりわけ退職したサラリーマン、自立を計画している若手の商人、事業を新規に拡張し、もうかる商売をしたいと考える者、ナチ党関係者であった。

  他の諸国も個人的に利益を与えることによってユダヤ人の移送に対する世論の同意を取りつけようとしてユダヤ人財産を利用した。そのような形で利用されたのはとくに不動産であった。文化財と動産は容易にドイツに輸送できたが、不動産と住居はその土地に残され、一般に特価で地元の非ユダヤ系住民に提供されたのである。

  Ch. ゲルラッハ(Christian Gerlach)はアルメニア人とハンガリーユダヤ人の財産没収にみられる類似点を指摘している。ゲルラッハによれば、「どちらの場合にも略奪願望が暴力の使用に拍車をかけた。どちらの場合にも、政府は略奪財産をできるかぎり完全な状態で手に入れ、戦争による国民負担を軽減、もしくは吸収するために再分配しようとした。しかし両国政府の政策構想は全く異なっていた。第二次世界大戦期のハンガリーの場合、(ドイツの占領を受けた、もしくはドイツと同盟関係にあった他のヨーロッパ諸国と同様)ユダヤ人財産の没収はいくつかの点で役立った。第一に戦争にともなう消費財の不足を緩和し、闇市活動も不満も抑えることができた。第二に、ユダヤ人財産を販売することによって余剰の購買力を吸い上げることができ、第三に、その利益は即座に国家財政を潤し、安定化させることになった。ハンガリーでは、ユダヤ人財産に含まれる衣服、靴、家財道具の没収までもがしばしば国家によって組織された。貴重品と不動産はほぼ完全に国有化され、戦争に向けて国民の意識を高めるために一部は社会政策に利用された。しかし1915年のアルメニア人虐殺の際にはアルメニア人財産の個人所有物はほとんど地元住民によって略奪された。貴重品も何度も私的に横領されたが、何十万人もの難民を入植させるための財源として不動産が利用されたという点では、[ドイツ帝国に]編入されたポーランドでのドイツ人[再]定住政策ときわめて似通っていた。」

  「再分配」にみられるようなユダヤ人財産の計画的利用は、道徳的制約から解放された手段としての行動の支配(Peukert)というナチ像と一致する。私利に動かされていたにせよ、困窮していたにせよ、ドイツ人に対して特価で提供されたユダヤ人財産は、占領地域からの略奪品と同様、ドイツ社会においてナチ体制への同意を促進する効果をもった。科学エリートの場合には、国家権力との協力の基盤となったのは物質的利害よりはむしろ研究と計画の地平が拡大されたことにあった。科学者とその専門知識には需要があり、大胆な計画と実践が直結していたようである。(ヨーロッパ再編というユートピアに関してはその殺人的な部分が実現された。ただしドイツ人支配人種による大陸全土の最終支配という妄想は実現しなかった。そして最終的には体制は自ら作り出した矛盾に陥ったのである。)この道具的で、無慈悲で、反道徳的なプラグマティズムは加害者社会を説明するためには重要である。ただし、ホロコーストを「説明」することはできないだろう。加害者の実利的な計算と被害者が経験した予測不能性、無力感のあいだには深い溝が残り続けるのである。しかしホロコーストが人間の文明を超えたところにある多かれ少なかれ古典的な暴力犯罪であるという考え方とは異なる。ホロコーストは文明が生み出しうるもののひとつなのである。

(翻訳 川喜田敦子)

 

■報告D: 「比較ジェノサイド研究の射程」石田勇治

 

石田勇治(東京大学)
    

はじめに

 これまで4人の報告者の方々が20世紀前半の3つの大きなジェノサイドについてお話しになりました。私に与えられた時間は20分です。まず先程のホフマンさんのご報告でも出てきましたヘレロ族・ナマ族の虐殺について補足的に取り上げ、その後で、これを含む4つのジェノサイドの比較と連関について考えてみたいと思います。

 

1) ナミビア 1904 (ヘレロ族・ナマ族の虐殺)

 今朝のご挨拶で、今年(2004年)はルワンダでのツチ族の虐殺から10年を数えると申しましたが、同じアフリカ・ナミビアでのヘレロ族・ナマ族の虐殺から100周年を迎えます。ちょうど日露戦争の前夜にあたる1904年1月、当時のドイツ領西南アフリカ(現在のナミビア)で現地住民のヘレロ族が蜂起し、土地と家畜を奪還し、ドイツ人入植者を殺害するという事件が起こります。現地のドイツ人総督の下には「ドイツ保護軍」が駐留していましたが、兵力が乏しいこと、また土地観に優れたヘレロの巧みな戦術、さらにはドイツ側にチフスの蔓延もあって、「保護軍」は制圧にてこずります。結局、6月になってベルリンの帝国政府は、義和団事件の鎮圧で勇名を馳せたフォン・トロータ将軍麾下総兵力一万五千の軍隊を現地に派遣し、3年の歳月を要してこれを平定いたします。

 この戦争は非常に残忍なものになりました。元来ドイツの植民地経営はイギリスのそれを真似て、分割統治・部族長との協調を原則とする比較的穏健なものでしたが、トロータは厳しい姿勢で臨みました。ヘレロ族は、近代兵器で武装したドイツ軍を攪乱するため高原地帯 (Waterberg) へと逃げ込み、いったん和睦の可能性を探りましたが、トロータはこれを無視し、そこを包囲して殲滅を計ります。10月には、ドイツ権益圏内に留まるヘレロ族を全員無差別に射殺する旨の「絶滅命令」を下します。辛くも生きのびたヘレロが行き着く先は渇水状態のカラハリ砂漠でした。何万のもヘレロが飢えと渇きで絶命しました。

 この殲滅戦が猖獗を極めたころ(1904年12月)、トロータは帝国宰相フォン・ビューロから「ヘレロの残存勢力を一時収容するための収容所(Konzentrationslager)」の建設を命じられます。これはトロータの残虐ぶりに当惑し、帝国の評判が落ちることを恐れた政府がヘレロ族の全滅を防ぐための命令であったと考えられますが、結果は同じでした。2つの収容所で約1万5千人のヘレロが拘束され、鉄道敷設などの強制労働に駆り出される一方で、収容所内の劣悪な食糧・衛生状況のために結局、その大半が死亡しました。

 ヘレロ族より少し遅れて蜂起したナマ族も同じ運命をたどります。生き延びて捕らえられた彼らはいったん収容所に入れられたあと、大西洋の小島に送られ、そこで大半が絶命することになります。蜂起の前にはヘレロ族・ナマ族あわせて約10万人を数えた人口は2万人程度に激減しました。

 ところでヘレロ族・ナマ族の鎮圧はドイツ国内では歓迎され、帝国の輝かしい歴史として記憶されることになります。制圧に手間取り、これに多額の国家予算がつぎこまれることに反対したドイツ社会民主党(SPD)は、帝国議会で予算案の否決には成功したものの、1907年の選挙では惨敗するという結果になりました。(「ホッテントット選挙」)

 ヘレロ族・ナマ族の虐殺はドイツ近代史上初のジェノサイドであり、帝国主義時代の西欧列強が植民地支配下で引き起こすジェノサイドの典型例となりました。これは西部開拓にともなうネイティブ・アメリカンの虐殺と同様、「神の名」において、つまりキリスト教の名において正当化されましたが、帝国主義的な領土の拡大・保全という動機によるジェノサイド(「領域獲得型ジェノサイド」)といえましょう。

 

2) トルコ、クロアチア、ドイツのジェノサイド−共通点を求めて

 本日のシンポジウムでトルコ、クロアチア、ドイツによる3つのジェノサイドを取り上げたのは、これらに比較的見つけやすい共通の要素があると考えたからです。以下、その共通点を4〜5点に絞って検討しましょう。

 第一に指摘すべき点は、いずれもある意味で近代的な nation state (国民国家)の形成ないしは再編の過程で引き起こされたという点です。(「 nation state 型ジェノサイド」)

 トルコの場合、オスマン帝国解体の最終局面で権力を掌握した青年トルコ(CUP)が、それまでの宗教や民族の違いに寛容な帝国のあり方を否定し、より均質的で統一的な「トルコ民族国家」をつくろうとしました。その途上で、従来あまり問題にならなかった宗教的、民族的な違いを逆に際立たせ、自らとは異なる特徴をもつ異分子=アルメニア人を排除しようとしました。

 クロアチアのケースでも、ジェノサイドの直前にユーゴスラヴィア王国( セルビア = クロアチア = スロベニア王国) という多民族国家が解体し、その中からナチ・ドイツの庇護の下、クロアチアが「独立」します。しかし、その領内にセルビア人などの異分子が残ったため彼らを排除して「純粋な」クロアチア国家を樹立しようとしました。

 ドイツの場合はどうでしょうか。ここでは nation state としての制度的枠組みはすでに出来上がっていましたが、ヴェルサイユ条約で「固有」の領土を奪われ、民族自決権が認められなかったことへの反発は強く、一部の急進右翼の間ではユダヤ人の市民権は撤回すべきだとの声があがっていました。ヒトラーはこうしたドイツを「人種」という新たな基準で再編・改造し、領土面でも拡大しようしたのです。そしてこの基準に適合しない者が異分子として排除されることになります。

 第二の点は、それぞれの ジェノサイドが諸民族の強制移住に関連して行われたという点です。3つのケースのすべてについて、強制移住がジェノサイドを招来したとは言えないにせよ、ある意味で「合理的な計算」に裏打ちされた、強制移住による nation state 建設・再編の試みが、ジェノサイドの環境を生み出したは言えます。

 たとえばトルコではジェノサイドの実行に深く関与したタラート・パシャ(内相)は「諸民族入植委員会」の責任者でもありました。その指揮下に、アルメニア人だけでなく、アッシリのキリスト教徒やギリシャ人までもが移住を強いられました。クロアチアでも、ナチ・ドイツとの取り決めに基づいて一定数のスロヴェニア人を受け入れる代わりに、セルビア人をドイツ占領下のセルビアに追放しています。また、ドイツではジェノサイドが本格化する前の段階で、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきソ連勢力下の「民族ドイツ人 (ethnic Germans, Volksdeutsche) 」の帰還政策に着手しています。

 第三の総力戦と、第四の独裁体制という点はまとめて説明します。

つまり、いずれのジェノサイドも総力戦 (total war) 体制下の独裁という条件下で生起しています。

 トルコの場合、第一次大戦の始まりはCUP独裁体制の確立に貢献しただけでなく、アルメニア人をいっそう危険な存在、つまり敵国ロシアに通じ、トルコを内面から破壊しかねない勢力として際立たせることになります。

 クロアチアでは、権力基盤の弱いウスタシャがクロアチア民族主義を潜在的な反セルビア感情と結びつけて煽りたて、「クロアチア国民」の結束を固めようとしました。戦時下でセルビア人が敵性分子と位置づけられたことはいうまでもありません。

 ドイツの場合はどうでしょう。ナチの独裁体制がすでに戦前おいてすでに完成しており、反対派が暴力的に一掃されていたため、国家の不法を正面から批判し、阻止しうる力はほとんど存在しませんでした。開戦後のドイツでは、戦争遂行のため、いっそう効率的な社会の建設が求められ、戦争に役立たないと考えられた人々は社会から排除されていきます。心身障害者や不治の患者とされた者に対する組織的殺害政策=「安楽死作戦」(T4作戦)は開戦とともに始まります。また、ユダヤ人はすでにかなりの部分が出国していましたが、残った者に対する隔離政策も開戦とともに始まります。ユダヤ人は敵に通じるから危険であるというのがその理由のひとつとなります。

 以上、3つのジェノサイドに共通する点として nation state 、民族移住、総力戦、独裁体制の4点を挙げました。「まだまだあるぞ」とおっしゃるかもしれません。たとえば、狂信的なイデオロギーや民衆の熱狂的な関わりという点です。

 もう随分前ですが、ダニエル・ゴールドハーゲンという米国の政治学者が、「ナチのユダヤ人虐殺は長年にわたるドイツの”国民的プロジェクト”が実現したものである」と言って、大論争になりました。私は、多くの歴史家とともにこの見方を拒否します。というのも、ドイツの近代におけるキリスト教徒とユダヤ教徒の関係史を振りかえれば、それは差別と迫害の歴史だけではなく、はっきりした共存の歴史があったからです。たしかに、ドイツにおけるユダヤ人の市民的平等の最終的な実現は1871年ですから、フランスよりも大分遅いのですが、多くのドイツ・ユダヤ人の大多数がドイツを自分の故郷と考えていました。(この点では、ヴィクトール・クレンペラーのナチ時代の日記『私は証言する』(大月書店)が大変参考になります。)オスマン帝国におけるムスリムとアルメニア人の関係も、ユーゴスラヴィア王国下のクロアチア人とセルビア人の関係もこれとかけ離れたものではなかったと思われます。

 ただ、ここで注意すべきは、当該社会における「穏健な」敵愾心や偏見の広がりです。いわば微温的な反ユダヤ主義、反アルメニア主義、反セルビア主義の存在です。それらは穏健であるがゆえに普段は表面化しにくいが、上位からの扇動や、戦争のような外的要因によって活性化することになります。

 さらに指摘すべきは、「異分子」に対する敵対感情とは無関係に、その排除から実際上の利益を享受した者が社会の各層に多く存在したという点です。トルコでもドイツでも、一部の科学者は明らかにジェノサイドから利益を得ていました。民衆の中にも強奪された資産を手にしたものも多くいました。CUPによって上から煽られ、しかも自ら略奪行為に加わることで受益者となったムスリムの民衆は、ジェノサイドの完遂に直接・間接的に貢献することになります。

 実際、これら3つのジェノサイドを政策として実行することを構想し、立案に関与したのは数十人から数百人、多くて数千人の権力者たちでありましょう。ただ、それに多くの科学者や知識人が加わることでシステムが出来上がった。これが第五の共通点となります。

 共通点ばかりを述べてきましたが、1点だけ、ナチ・ジェノサイドの特徴に触れます。それはナチ・ドイツが巨大な侵略国であったという点です。クロアチアもトルコも領土的野望はあったにせよ(とくにトルコはロシアに奪われた領土の失地回復を求めていた)、それはナチ・ドイツほどの大きな規模でありませんでした。ナチ指導部はすでに帝政時代に言われていたLebensraum (「生存圏」構想)を最もラジカルな方法で実行に移し、東ヨーロッパとロシアに広がる「新領土」で自らの理想国家の実現を図ったのです。これは領土獲得・勢力圏の拡大という点で、ナミビアでのジェノサイドに通じるものがあります。異境の地に領土を求め、その人的・物的資源を徹底的に搾取しようとする侵略戦争が、人種主義的な意味での国家再編計画と結びついた結果がナチ・ジェノサイドとなりました。

 

3) ナミビア、トルコ、クロアチア、ドイツのジェノサイド−歴史的連関を求めて

 次にナミビアを含む4つのジェノサイドの連関について考えてみましょう。ここでは次の3点だけを指摘するにとどめます。

 第一に、ヘレロ族・ナマ族との戦いで設置された強制収容所の問題です。

 強制収容所は20世紀ジェノサイドの主要な構成要素となります。その歴史的起源は1830年ごろ、アメリカ先住民のチェロキー族を強制移住させようとした合衆国軍がかれらを収容するために作ったのが最初と言われますが、19世紀末のキューバ戦争でスペインがキューバに、その直後のブーア戦争ではイギリスがケープ植民地にそれぞれ収容所を設置しました。西南アフリカでドイツが作った収容所は、イギリスのそれを真似たものです。トルコでも、クロアチアでも数多くつくられますが、労働収容所・強制収容所・絶滅収容所などさまざまな用途の収容所を機能的に統合させひとつの巨大なシステムに完成させたのはヒトラー支配下のドイツでした。ヨーロッパの外で最初に作られた収容所は、1930年代にはヨーロッパの真っ只中に戻ってきました。もちろんスターリン体制下のソ連や、第二次大戦下の米国、カナダでとくに日系人を収容するための収容所が建設されたことはよく知られた事実です。

 第二に、人種優生学や疫病研究に絡む問題です。

 ヘレロ族の蜂起と手強い抵抗は、その後のドイツの植民地経営に変化をもたらします。ナミビアでは白人と現地住民との分離がいっそう進み、後に南アフリカで成立するアパルトヘイトを先取りするような政策が実行されます。

 その一方で、蜂起にさいして示された現地住民の手強い抵抗力と優秀な戦闘能力は、現地住民に対するドイツの科学者の関心を喚起し、混血研究など人種人類学を隆盛させます。蜂起鎮圧後に現地に渡ったオイゲン・フィシャーは、ヘレロ族の強さに興味を覚え、白人との混血がそれに与っていると考えました。フィッシャーはその後、人類学の研究を続け、1920年代にはカイザー・ヴィルヘルム研究所(KWI)の所長として、人類学・遺伝生物学・人種衛生学の分野で多くの科学者を育てますが、その中にはやがてナチの人種政策を担う者も出てきます。

 またナミビアで「ドイツ保護軍」を悩ませたチフスなど疫病の対策についても、その後の展開につながる契機がみられます。

 ドイツの疫病研究はコレラ菌の発見者としてロベルト・コッホがあまりに有名ですが、疫病の根絶は当時ドイツ帝国の重要な関心事でした。帝国創設(1871年)以来、ブレーメンやハンブルクなどの港湾都市では海外からの入国者に対する検疫検査が行われていましたが、1892年のドイツにおけるコレラの発生は帝国政府をパニックに陥れます。やがてロシアとの国境地帯にいくつもの検疫所が設置され、国民を疫病から守る「防疫システム」が作られます。ちょうどそのころ、ドイツではロシア帝国など東方からの流入人口が急増しており、これが疫病の発生と結びつけられました。つまり、東方からの流入民が病原菌を持ち込むと考えられたのでした。この文脈で危険な存在と見なされたのが、オストユーデン Ostjuden と呼ばれる東方からユダヤ人やロマ(ジプシー)でした。

 疫病は軍隊でもひどく恐れられていました。すでにバルカン戦争時、ドイツ・オーストリアは同盟国のブルガリア軍の疫病対策を支援するため専門家を派遣しています。第一次大戦時にドイツの軍医や衛生官がトルコに派遣されたのもこの疫病対策が目的でした。かれらはコンスタンチノープル、アレッポ、アドリアノープル、スミルナに防疫対策室を設け、消毒施設を普及させるとともに、「シラミさえ殺さないムスリムの慈悲深さ」に驚きつつ、これを克服してゆきます。

 第一次大戦中のトルコ都市部の貧困と不衛生はひどく、シラミにたかられた物乞いを官憲が追い立てて、ドイツ人衛生官の指導で消毒を施すというようなことが日常的に行われていたといいます。それでも効果はあがらず、疫病は蔓延寸前でした。こうした状況は、「公共衛生」を口にし始めたトルコにとって、アルメニア人を攻撃する格好の口実となりました。彼らは疫病患者に見立てられることになります。虐殺が始まると、トルコの病院では実験と称してアルメニア人に細菌注射が打たれるということもありました。ドイツの医師たちはこれに眉をひそめたといいますが、中には「アルメニア人がトルコの公共衛生を台無しにしている。都市の貧しいアルメニア人がチフス菌を持ち込んでいるのだ」と述べて、都市からのアルメニア人の追放を要請したドイツの科学者もいました。ペーター・ミューレンスはその一人ですが、彼は同時期にトルコに派遣されたローデンヴァルト、ツァイスらとともに「アウシュヴィッツ」でチクロンBの使用に関与するような「ナチ・ジェノサイドの科学者」への経歴を歩むことになります。

 第三は、すでにのべた点ですが、民族移住を正当化した「近代化」の論理です。

 アルメニア人虐殺を実行したCUPの指導者たちの発想は極めて近代的かつ科学主義的で、その点では限りなく西欧的でありました。彼らの多くは20世紀の初頭のフランスやドイツで学び、当時流行の人種主義・優生思想に親しんでいました。そもそもCUPの母胎となった軍医学校には、先のミューレンスなどドイツの科学者が出入りしていたのです。

 レシッドなどCUPのエリートは、すでに実施されていたオスマン帝国の人口動態調査をもとに、新国家から排除すべき集団の移住計画を立案します。CUPの幹部は後進国トルコを一気に近代的なnation state に改造するため、西欧諸国では容易に実行できないことを一気に行おうとしたのです。この方針は第一次大戦後、ケマル・アタチュルクによって継承されて行きます。

 オスマン帝国を各方面から蝕む西欧列強に反発しながらも、西欧的発想を身につけたトルコの近代化論者が引き起こした蛮行が、アルメニア人虐殺でした。近年の欧米の歴史研究はCUPエリートが体現していた「先進性」に注目しています。社会を技術の力でいかようにも改造できるという当時の社会工学的な発想はこの時期のトルコにも見られたというわけです。

 ところで、かつてドイツの歴史家エルンスト・ノルテ(有名な歴史家論争で一方の論陣をはった人物です)は、ホロコーストの相対化を企図したある論文でアルメニア人虐殺を取り上げ、それは「ヨーロッパ文明とははるかにかけ離れたアジア的手法で行われた」と論じました。そして、ヒトラーはその「アジア的野蛮の潜在的犠牲者」として、自ら「アジア的野蛮」に及んだのだと述べました。

 しかし、私はそのようには見ません。「アジア」という言葉をこうした文脈で使うノルテの感覚には辟易しますが、アルメニア人ジェノサイドは「アジア的野蛮」の発露という以上に、ヨーロッパ近代と、それに取り憑かれたトルコ・エリートが引き起こした蛮行でした。あえて誤解を恐れず挑発的な言い方をすれば、それは非ヨーロッパ地域における「ヨーロッパ的ジェノサイド」のひとつといえるかもしれません。

 

おわりに

 今回のシンポジウムでは20世紀前半の3つ、ないし4つのジェノサイドをとりあげましたが、これらは本プロジェクトが扱う種々のジェノサイドの一部に過ぎません。今後、ルワンダ、グアテマラ、東チモール、また社会主義体制下の集団虐殺としてスターリン支配下の旧ソ連での集団殺害、中国の「文化大革命」期の虐殺、カンボジア・ポル=ポト体制下のジェノサイド、関東大震災直後の朝鮮人・中国人虐殺なども取り上げます。

 最後に、ドイツのホロコースト研究者で、私も敬愛するヴォルフガング・ベンツ氏の著書で、このたび翻訳出版された「ホロコーストを学びたい人のために」(柏書房)の「日本語版への序文」から、最後の文章を引用して報告を終えたいと思います。

 「ホロコースト研究はいずれ比較ジェノサイド研究に統合されるであろう。この比較ジェノサイド研究は、二十世紀のヘレロ族の虐殺で始まり、オスマン帝国のアルメニア人虐殺を含め、さらにカンボジアやルワンダ、スーダンやその他の国々での未曾有の破局を視野に入れ、スターリン支配下のソ連のような、住民に対する国家的テロをテーマとし、必然的にジェノサイドやテロについての新たな定義に至るであろう。そしてこの定義は、ホロコーストのいかなる次元の歴史的犯罪の序列化、相対化、また周縁化を意味するものではないのである」。